インターネットが進歩して、とりわけSNSが現れてから、人同士のコミュニケーションのスピードの速さは異質なものになった。
そんな中で、昨今の若い人らに「好きなもの」を言えない人が増えているらしい。
何故なら、もっと好きな、もっと詳しい人が沢山いるから、自分が好きということがおこがましいことだと感じてしまうのだそうだ。
自分が中学生のころはJポップ全盛でクラスに洋楽に詳しい人なんか一人も居なくて(自分が知らなかっただけだろうけど)、たまたまCD屋でプッシュされてたGREENDAYのアルバムを買ってヘビロテしていただけで洋楽好きを名乗って、友達に自慢したりしていた。
きっと今そんなことをSNSに書いたりしたら、顔も知らない人から「それだけで洋楽好きとか馬鹿にしてんのか」「洋楽好きを名乗るならこれを聞かないとダメですよ」みたいなヤジだったりなんだりかんだりが飛んできて、もしかしたら洋楽を聞くことを止めてしまうかもしれないと思った。
好きということは悪いはずではないのに、ないからこそ必要無いはずの責任を背負わされたりしてしまう。
好きなのに、好きだからこそ、好きなはずなのに、そうやって自問自答していたら、自分の好きなものが分からなくなってしまいそうだ。
一方で嫌いと言うのはとても簡単で、何か間違いがあっても、浅はかな意見だったとしても、「嫌いだから」という理由で片付くし、何かを嫌いという人に「嫌いなのはおかしい」といって絡んでくる人の方がおかしいことはわかりやすいからだ。
一方で好きを共有したいという善意とも見えそうな、実のところはマウントでしかない「好きなのにおかしい」は本当にやっかいだ。
先日SNSで自分が一番の愛読書だと自負するこよなく愛する漫画について呟いたら、「そのセリフ間違っていますよ」というコメントが付き、読み返したら本当に間違っていて赤っ恥をかいた。
今日Eテレで、なぜ推しに全てを注いでしまうのかって番組やってたよ
好きが一致する人より嫌いが一致する人と集まりたいんだよね 好きは変わるけど嫌いはなかなか変わらないから