「BL表現がポリコレから自由であること」と「同性愛者を表現する時に当事者へ配慮すること」、そして「同性愛者の表現とBL表現を区別すること」はそれぞれ全く異なる議論であって、全て同時並行で成立もするし、「BLは同性愛者に配慮しなければならない」という話ではないのよな。
「ここでは同性愛者を表現しなければいけないところを、BL表現で代用してしまった」という”やらかし”が炎上した時、「BL表現はセンシティブなのだから、同性愛者に配慮しなければならない」という言説と、「BL表現は同性愛者とは無関係なのだから、完全に自由であるべき」という言説の喧嘩が始まるのだが、そのどちらも批判していかなければならないのだよな。
こういうことは、男性向けの美少女表現などでもしばしば起こる。(しかし宇崎ちゃんのポスターなどはそういう類の話ですらなく、シンプルに「二次元表現」でしかなかったのだから、シンプルに「現実とは無関係」と言い切れる事案だったのよな。)
ただ、BL表現と同性愛者表現は必ずしも0か1かで区別できるものではなく、双方が溶け合って一つの表現となっている場合もある(というか、おそらく大部分を占める)という点が、議論を複雑にしているのだろう。
「米は健康に良いか悪いか」という解像度の低い話ではなく、「糖質は?食物繊維は?運動量は?」と、状況や各要素に着目した丁寧な議論を行わなければいけない。
あれは男性向けというよりレズビアン向けの表現と呼ぶべきだろうけど(関係者がレズビアンを自認しているとは限らなくとも、スペクトラムに位置づけられる事象だと思う)、私が昨日書...