2020-08-21

怒るというパフォーマンス弊害



子供同士のちょっとした喧嘩相手が泣き出して双方の親が介入。

最初ちょっかい出して来たのはあっち」という主張を受け入れられず、「謝りなさい!」と親に怒られる。

親としては、泣いている他人の子を前に一切悪びれない我が子を見て、更に周りの目も考えるとそうして場を納めるしかないのだろう。

子供としては、もちろん納得がいかない。

納得はいかないが、これ以上怒られてはかなわないので、仕方なく謝る。



■よくよく考えれば、納得していない=反省をしていないのだ。

反省をしないどころか、何故自分は今「謝らせられている」のかが根本的に理解出来ていない。

から同じことを繰り返し、また謝らせられる。

何回かこれらを繰り返すうちに、

・怒られるのは避けたいこと

・怒られるからしてはいけないこと

という意識生まれる。

「何故」してはいけないのかがわからないまま、なんとなく、少しずつ謝らせられることは減って行った。



■怒るというパフォーマンスをし、その場を納め、相手方と分かれた直後に我が子へとフォローを入れて来る親。

子供としては「味方だと思っていた親に訳もわからないまま怒られた挙句、謝らせられた」という気持ちである

我が子である自分の主張を受け入れずに喧嘩相手の肩を持たれたら、相当なショックだ。

そんな心境の子供に、「何故」してはいけないか、「何故」そうしたのかなどを説いたり聞いたりしても、子供本心には届いていない。

謝らせるにしても、納得、理解及び反省させた上でなければ

その我が子の謝罪には「ママコミュニティの中での自分を守る」という意味しかないのではないだろうか。



■成人を過ぎた今、何かミスをした時に「こうなったのはこういう理由があった。」という主張をするようになっていた。

もちろん悪いのはミスをした自分だが、頭ごなしに怒られる前に「何故」こうなったかを聞いてほしいのだ。

この主張を汲んだ上で怒られるのであれば、仕方がない。本当に悪いことをしてしまったんだ、という自覚が改めて生まれる。

黙って怒られるし、ちゃんと謝る。そして次は怒られずに済むよう反省し、同じミスをしないよう策を考えて気を付けるようになる。



だが、この怒られる前の主張のことを人は言い訳と呼ぶらしい。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん