小一の頃、人の悪意にとても鈍感だった。
外履が無くなって、「知らない?」
と、後ろ手に何か隠してニヤニヤしてる子に聞いて
「しらなーい」と言われ、
「そう。バイバイ」
と、返事をしてそのまま上靴で帰ったり。
マラソンをやりたくなくて放置していた壁に張り出された一回も走ってないマラソンカードに落書きされる箏三回。
先生に叱られて泣きながら謝る子に何を言えばいいか先生に聞き、「もうしないでね」
……というのを3回繰り返し、さすがに先生に
「絶対しないでねくらい言いなさい」
と言われ、仕方なくそれを言ったり。
その間も、「何で私は、特に困ってもない事への謝罪を受ける為に人前に立たされてるんだろう」と思っていた。
と、よくdisって来ていたけど、先生の思惑通り、7歳児の頭では音をそのまま覚えるくらいが関の山だった。
その頃、私にとって悪意とは、何かが気に入らなくて、いきなり胸ぐらを掴んで殴り付けて来る男子のことで、それに関しては拳という解決方法をとっていた。
これら、ただ記憶として記録していた物に意味ができたのがいつか分からない。
ただ、ある日突然、これが悪意で、人間は普通、こういうことをされると傷つくのだという事に気付いた。
すると皮一枚向こうにあった何かが猛烈な痛みを伴ってやってきた。
今まで殴られ続けていた人間に、何かの拍子で痛覚ができてしまったのだ。
けど、それに気付いて、古今東西の物語や実体験の中から、より人を傷つけて消耗させる言動というのを身につけた私の根性も中々だと思う。
「君は足が遅いから、多分無理だね(落書き事件の犯人探し」 見つけたよ