私は左翼が嫌いだ。彼らは彼らの理想の世界を常に希求しているが、その理想を共有できない人間の存在を認めない。分かりやすい例で言うと、多様性についての議論がある。彼らは多様性を認めない人の存在を認めない。私は多様性を認めないのも一つの多様性としてある話だと思うが、彼らは多様性を認めない人は多様性ではないとよく分からない屁理屈を捏ねて自分たちの理想の世界を毀損する存在を認めないのだ。
しかし、ここで一つ疑問がある。私は、この主張をそのまま主張する左翼を具体的に挙げることができないのだ。つまり、私が嫌いな左翼というのは私の脳の中にしか存在しない左翼であり、言うならば藁人形だ。
私は私の嫌いな存在を考えるとき、具体的な誰かではなく抽象化された属性を考える。ここで言うのならば「左翼」だ。
そして、その属性が抽象化されるときに私の嫌いな性質がどんどん集まってますます具体的にはこの世に存在しない藁人形と化す。
藁人形に釘を打って何かを晴らした気になる私は愚かだ。
藁人形という言い回しは、元は中身のない、実体のない存在を指すものとして生まれたものであろうが、ここにきて人々の呪いを一身に受ける存在としての意味合いも出てきているように思えるのだ。