2018-04-19

淘汰されるオジサン達に思う

仕事をして、ある程度の年齢になり大学院に入り直した。

そこで、ディスカッションの授業を取った。

自分意見を言い、反応が返ってくる。相手意見を聞き、新たな考えを知る。学生に戻って良かったな〜と思える瞬間である

周りは4-5歳若い男の子が多いが、物腰柔らかく、丁寧で、人の話もきちんと聞く。ちゃんとしてるなあ、と思う。

その場にいる男の子たちが目の前の女性に向かって、心が痛むような発言をする人間には見えないし、そんな風になるとも思えない。時代は変わっているんだろうなあ、と思う。

一方、仕事で接する自分の親父くらいの年代のオジサンセクハラ発言普通にする。仕事相手に対しても平気で。それをコミュニケーションと捉えているんだと感じられた。時代が違うんだなあと思う。

今の一連のセクハラに対する流れは、時代に置いていかれたオジサンたちが淘汰されつつある。まるで恐竜絶滅を見ているような気持ちになる。

そんな中、思うのは、人は誰でも他人をどこかしら傷つけている、という事実である。オジサン価値観の中ではセクハラコミュニケーションだったが、それは相手を傷つけていた。自分はどうか?と思うのである

私が当たり前と感じる価値観、当たり前に発する言葉が、だれかを傷つけてはいないのか。いつか淘汰される側に回る可能性はないのか。オジサン達を淘汰する側も、心に問いかけておく必要があるはずだ。

例えば、「オネエみたい・ゲイみたい」という発言や、「太った?・痩せた?」「彼氏できた?・結婚しないの?・子供は?」など。一度でも、これらの言葉自分が発したことが無いなんて思えない。でも、きっとこれらの言葉は、誰かの心を傷つけたことがあったはずだ。

セクハラは無くなるべきだ。セクハラオジサン達も淘汰される必要がある。

じゃあ、私はどうなんだろう。

不用意な一言が、誰かの心を傷つけてはいないだろうか。

テレビに映る、淘汰されゆくオジサン達を見ながら、自分の心に問いかける日々である

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