親の世代に遡るけど、差別から身を守るためにはそうしたコミュニティに属するか、そうしたコミュニティから逃れて隠れるかという選択肢があってうちはその後者だった。
それは言葉を変えると、朝鮮人としての在日として生きていくのではなくて、自国から離れて在日朝鮮人として生きていくということの選択でもあった。
マイノリティとして生きる上で日常的な差別から身を守るには被差別者であることを公表しないことが何より効果的だった。
帰化すればいいのにって言うのは簡単で、例えば関西の人が東京に出てきて関西弁を捨てて東京人になりたいか?というような問題だと思う。
さっきサイバーメガネの人にブクマされて思ったけど、誤解を恐れずに書くと、今、福島を離れて都市部に出てきている人も同じように考えているんじゃないかな。
日々周りを取り囲む差別に怯えて、地元に残る人の一部からも白い目を向けられて、それでも本籍を変えて故郷を捨ててまで生きていきたいか?という感じ。
そんな簡単な問題ではないと思うので、でしゃばった意見だったら申し訳ない。
要するに自分が被差別者だったからこそ得られた経験が沢山あって、何よりもアイデンティティでもあるってこと。
今は隠す隠さないというより、必要があればその都度公表するし、不都合があればあえては口にしない生活。日常的な嘘からは解放された生き方がやっと出来てきた感じです。