昨日の帰り道、誰かが落としたであろうパスケースが”落とし物です”と書かれた紙と一緒に電信柱に貼られていた。
先日にも、子供のものと思われる手提げ袋が立て看板に吊るされていた。
こういうことをする人たちは自分が落とし物をしたことがあるのだろうか。
落とし物をした人が血眼になって探しているのは足元だ。
以前に家の鍵を落とした時、3時間以上探し回って見つけられず途方に暮れた帰り道に街路樹の枝にぶら下げられている鍵を見つけたときは安堵感よりも怒りのほうが大きかった。
その街路樹の前なら少なくとも3回は往復している。それなのに気づかなかったのは、落としたのだから足元にあると思い込んでいたからだ。
それを吊るした人はそれで親切心が満たされたのだろうか。
本当に親切をしたいなら少なくとも交番までは届けて欲しい。
むしろ何の気なしに歩く人の目に止まりやすくなっていることで、悪意にさらされる危険性が増しているということがどうしてわからなかったのだろうか。
最近のネットを眺めていると、これと似たようなことばかりだということに気付いた。
彼らは問題を解決したいのでも困っている人を助けたいのでもない。
自分の自己肯定感を満たしたいがために、問題や困っている人を探しているのだ。
そこには解決も救済もない。
これからの世の中は、そうした消費のされ方がより一層進んでいくだろう。
SNSの普及によって世界中が即座につながることができるようになったことで、今や彼らの自慰行為は世界規模にまで展開が可能になったのだから。
お互いがお互いの人生の物語をお互いの自慰行為のために消費し合う世界がすでに始まっているのだ。
薄汚い欺瞞という手垢に塗れたパスケースを電信柱から引き剥がして地面に叩きつけると、高らかに響いたその音が、新たな戦いの始まりを告げるファンファーレに聞こえた気がした。