顔が醜くて性格が暗い奴を指して使う意味での「オタク」ではなく
一つのコンテンツが生きる糧になっているような意味での「オタク」
としての話。
電車男が流行っていた時期ではオタクという生き方がかなり隠れた
層でしかできず、故に濃度の極めて高いものだけがオタクとして生きていた。
時は経ちオタクの主な住処でもあったネットが一般層、はたまた若年層にまで
普及し今やオタクコンテンツは一つの趣味として使えるようになった。
ネットは趣味の共有による仲間作りのハードルを大幅に下げた功績は大きいのだろう。
それでも一般層の多くから見れば今まで通り気持ちの悪いものではあるが
昔のような濃度がない人間がオタクとして生きることができるようになった。
どちらかというと濃度がない人間がオタクを名乗るようになったのか。
こうしてオタクといっても濃度の濃さが違うことが浮き彫りになっていくと
オタクはある意味適性、才能のような部分があるとわかってくる。
例えば、どこか打算的でコンテンツを自分の価値を上げる道具として見ている場合や
共有意識が持ちたいがためにコンテンツを続けていたりという具合。
つまりは「好き」という感情より「得」をしたいという感情でオタクに
基本的にオタクになって「得」をするのは難しい。大半は生活から離れた
唯一残るのは「共有」していた仲間と記憶だろうか。「好き」という感情から
生まれたこれらはその人に取っては貴重な財産になる。「得」をしたいという
人間が本当に求めているものであるが残念ながらそういった人間は
仲間は時間とともに消えていくし記憶も空しいものになってしまうだろう。
オタクとして生きるのは難しい。
ファッションオタクになっても得るものは無いし、残るのは後悔だけ。これはまじ。