もし周囲の環境によっては未然に防げたのだとしたら、何ができたのか、何をすべきだったのかを考えないといけなくなってくる。それは自分が行動を変えなければいけないような気がしてとっても居心地が悪くなることだ。そんなことには耐えられない。みんな気持ちよく毎日を生きたいのだ。
だから、生まれつきおかしかったと信じたい。生まれつきなら、自分が何をしても無駄だろうから、自分に責任はない。自分の行動を変える必要もない。しかも自分は正常な側、相手は異常な側にいて、その間には絶対に越えられない溝がある。いくら石を投げつけたって自分は安全だ。
だから、異常な事件が起こるとみんな、決定的に自分と犯人を隔てる、人の手を超えて変えられない何かを探す事に必死になる。
最近は、とても便利な道具ができた。発達障害と言うやつだ。今なら子供のうちから療育をほどこすため、スクリーニングでどんどんあぶり出されるようになっているから分かりやすい。これは実に申し分なく越えられない溝の役目を果たしてくれる。正常者と異常者の割合もちょうどよい具合で、誰でも身近に一人は発達障害者を知っている。「ああ、ああいう…」と実感もできる。「あの子も何かしでかすかも…怖いなぁ…」と、事件の当事者感覚を楽しむこともできる。何より、そいつが異常であり、自分達とは決定的に違う存在だということは、お医者様によるお墨付きだ。だから自分がその相手を犯罪者予備軍として見ることは、謂れのない偏見とは違う。医学が自分の正しさを担保してくれる。
だから堂々と発達障害者を警戒しよう。仲間たちに注意を呼び掛けよう。あの子もきっと、おかしなことをするよと。仲間に入れないようにしよう。距離をとろう。安全のために。そうしたらきっと、いつかその子は暴発し、警戒を呼び掛けたあなたの正しさが証明されることになる。
人というものは、自分に理解できないものに対して型に当てはめようとしがちある。そうすることによって理解できないものを理解したような気分になるからである。 今回の佐世保の...
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彼女は我々と同じような普通の人間で、ただ運悪く周りの人間に恵まれなかっただけではなかろうか。 そうだねそうだね、周りの人間が悪かったよね。 父親が悪いよね、学校が悪いよ...
いやマジで人間なんて、ほぼ環境だけで決まるもんな
まあ、サイコパスって言葉も一人歩きしてる感あるよね。
サイコパスだって普通の人間だよ。
運悪く周りの人間に恵まれなかった場合と 運悪く生まれつき何かが欠如していた場合で 同じ人間でたまたま運が悪かったという点は共通しているのに、区別する意味はあるだろうか 前...
子供じゃないなら周りの人間は選べるわな。 自分がどう生まれてくるかは最初の一回だけだから選べないままだけど。
サイコパスかどうかの判断基準は「罪悪感の有無」。 今回の事件の犯人が本当に罪悪感を持っていないかどうかはわからないが、同級生を殺して冷静に切り落としたり、謝罪も反省も示...