2013-06-10

安全』より『安心』を

「『安全』より『安心』を」という考え方が未だに理解できない。

危険が(少)ない」という事実状態より、「危険が(少)ないと思えること」という認知の問題の方が重要なのだろうか。

さほど不思議なことじゃないよ。

人間能力には限りがあるので、すべての自称に対して事実確認をすることはできない。

たとえばスーパーマーケットで産地の表示のある食料品を買った所で、一般消費者にはその産地が偽装されていないかどうかの確認は、非常に難しい。

放射能問題のときもそうで、たとえばお母さんが放射能関連ニュースビビッドな反応を示し様々な手法危険回避したはいいけれど、そのヒステリックな行動で子供の方は大きなトラウマを負ってしまって健康を失うなんて事例もある。これなんかは本当に本末転倒だ。

人間能力限界があるから、そのリソースを上手いバランスで利用しなきゃいけない、また事実状態の確認なんて言うのは、一般人が追求できるテーマでもない。どこかで手打ちにせざるを得ない。その2点から考えると、(結果はどうあれ)「自分にとって安全が納得できる着地点を探すこと」「その着地点において残ったリソース生活すること」は、生活スタイルとして非常に合理的だよ。

  • それはわかるんだけど、大学の授業のときに政府の役人がきて「『安全』より『安心』」とかいいだしたときにすごくもにょった。

  • 「『安全』より『安心』を」って (先ず)安全(は当たり前で) より (不安も無い)安心を という「より良い」って意味で使っているのかな?って思った。違うかな?

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