2013-03-11

人間関係に興味をもてないのだけれど

これまでの人生で関わってきた大抵の人とは、あとには何も残らないような関係しか築けなかったのだけれど、いま考えてみると、それは当然といえば当然なのだった。人間関係それ自体を目的とした関係は、表面上、私の求めるところではなくて、その人の能力意志社会的な居場所なんかを志向して、そのたびごとに短期プロジェクトをつくっては解散させてきたようなものだった。

何か一緒に仕事をしても、私が求めるように見えるのは人となりでなく能力労働から仕事という鎖が解消されれば、私と彼らをつなぎとめるものも消えてしまう。生きづらい環境で傷を舐めあう仲間を見つけても、私が惹かれていると考えるのは彼らのキャラクターでなく機能なのだから卒業や異動によって環境が変わると、関係は途絶えてしまう。

そんなわけだから人間関係を求めない私が人から求められることも滅多になかった。遊びや飲みに行くにしても、自分から声をかけないかぎり、まず機会はない。私としては彼らのことを都合よく利用しているような気持ちはなくて、上に述べたような関係が私にとっての「人間関係」だったのだけれど、そのことを理解してくれるまでに人間関係を深められる相手は、決して多くはなかった。

こうした疎外感について、さみしい気持ちがないと言ったらもちろん嘘で (疎外感って書いてるくらいだしね)、ときにはそれに、僻みや強情が加わったりもした。人と関係を深めるのが怖くて,さみしくてさみしくて仕方がなかったけれど、自分がさみしいということにすら気がつかなかった。

それでも、家族別にしても、こんなにわがままな私にも気をかけてくれる人が確かにいることに、最近はっと気がついて、とってもありがたいような、申し訳ないような気持ちになっている。20代も半ばを過ぎて、これから後、私というものががらっと変わることはまずないだろうから、「人間関係」において失ってきたもの、失うであろうものに心を悩ますのは得策でない。汚くて正視できない欠点も含めて、私は私で、そんな私にも愛することのできるものをきちんと見つめていこうと、そんなことを思った次第。

  • こんな風に自己開示されると、もっと話を聞いてみたくなるんだよね。

  • 人間関係ってそういうもんじゃないの? 趣味の友達とか、会社の友達とかいうじゃん。例えば野球がすきだから、野球の話のできる友達作るし、プログラミングが仕事だから、コンピュ...

  • 俺は逆に人間関係に興味があるほうだったけど 年々みんな俺のことはどうでもいいんだなってことに気付いて それから俺も周りのことはどうでもよくなっていって 段々興味を失ってい...

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