2011-07-02

恋人を信じることと、神を信じること

絶信の信という言葉を見かけた

信仰とは、信じるという自発的で自分能力依存する形で為されるものではないらしい

自分が信じ切れない、そういう状態でさえ委ねることを信じるというらしい

「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」

12使徒の1人であるペテロが、キリストに言われた言葉だそうだ

キリストの信奉者であったペテロしかし、イエスを知っているかと問われた時に否定した

3度問われ、3度否定し

その際に思い出した言葉が上の文章だ

おそらく、その当時で最も信心があった人間の1人が、それを否定する

なれば、個人内部にある信心など、どれ程のものだろうか

からこその、絶信の信だそうだ

それはつまり自分の信心に限界があり、不誠実だと絶望

それでも、神の確実性に縋ることをそう呼ぶんだそうだ

大乗仏教における阿弥陀如来は、時が来るとあらゆる時空の人を救うとされている

あらゆる人を無条件で救うならば、もはやそこにおいては個人の信心さえ不要

確実に救われるのなら、それに委ねれば良い

信じる・信じないすらどうでも良いのだろう

受け入れるか、受け入れないかの問題だ

受け入れない事すら何の意味が無い

本題を話したい

恋人を信じる行為において、神や仏を信じる事と同様の事が言えるだろうか

自らが信じる・信じないすら関係ない

受け入れるか受け入れないかも関係ない

ただ、その確実性があるだけ

そんな関係があり得るのだろうか

たかが、人間風情だ

何が確実性なのだろうか

それはもしかすると、その存在そのものだろうか

永遠に愛される事は叶わない

人間である以上は、その能力限界からして永遠や確実と言う現象は起こせない

だけど、その人がいて、一時でありさえも出会ってしまったならば、それは消せない

記憶が消えても、その事実は消えない

わずかでもその影響は残るのだろう

人間は不誠実だ

忘れてしまう事さえある

昨日まで愛を語った相手を激しく憎んだり、無関心になったりもするだろう

それでもどうしようもなく、相手の影響だけは受けてしま

そこにおいてだけは、確実で永遠なのだろう

信じる事すら必要ない

受け入れる必要もない

そうなってしまうのだから、そのままでいる他はない

かつて、人間対処できない自然、何も出来ないものを神と称したように

恋人における神性は、その存在そのものに宿るんだろう

そして、それに対して何をする必要もないのかもしれない

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