散歩をしていると犬が吼えてきた。
よくあることなので無視していると尻に衝撃があり、前のめりに倒れてしまう。
立ち上がって背後を見るとロープを首から垂らしたでかい犬がいた。
小学生の頃、下校途中に近所の悪評高い凶悪な犬に追い掛け回されて以来、犬という生き物が苦手になので、
正直こいつはやべぇよとびびりまくっていた。
犬の首には首輪があり、首輪にはロープがついている。という事は飼い主がいるだろうし、恐らく散歩の途中なのだろう。
辺りを見渡たしてみるが、それらしい人影はない。ペットを飼うものとしてのマナーがなってねぇよとうんざりした気持ちになり、その場を離れようと歩き出したが、何故か犬がついてくる。
ロープに付属している金属がアスファルトと擦れてちゃりちゃりという音を鳴らしている。
俺は平静を装っていたが、しかし背中には嫌な冷たい汗が流れているのを感じた。
なんなんだ?
この犬は? この状況は? 俺の何がこの犬を刺激した? 興味を惹いた?
緊張感が高まり、もうこれ以上は耐えられないという地点まで来たところで、女性の鋭い、悲鳴にも聞こえる声が響いた。
驚いてそちらを向くと、かなりの速度で駆けてくる二十代後半ぐらいの女性が見えた。犬も女性の方へと走っていった。飼い主と飼い犬の再開である。
女性が屈んで犬を抱きしめる。犬も飼い主の女性の頬を大きな舌でベロベロしている。
よかったよかったと胸を撫で下ろし、俺はその場から立ち去ろうとしたが、背中に「待って!」と声をかけられる。
えっ・・・と思い、振り返ると、女性が厳しい視線でこちらを見ていた。
他人の敵意や悪意には人一倍敏感な俺なので一瞬で狼狽した。
女性が口を開いた。
「どうして人の犬を連れていたんですか?」
違うよ! その犬が勝手に俺に体当たりをかましてきたんだよ! ついてきたんだよ!
弁明しようとした。しかしそこは人付き合いが死ぬほど苦手なニートである。口が動かない。全身が熱くなって、
落ち着きがなくなり、視線が泳いでしまう。どう見ても挙動不審である。女性の目つきは今や犯罪者を見る目そのものだ。
やっと口を開いて、言葉を発する事に成功する。
「じじじぶんはかんけーぃねぃですぅ・・・」
成功ではない。大失敗である。俺は泣きそうになった。というより、視界が涙で滲んできたし、
「あああああ、あの、その犬が勝手に・・・」と言う声は擦れ切っていた。
もう耐えられなかった。俺は回れ右をすると、駆け出した。女性の「あ!」という声が聞こえたが、もちろん無視し、
立ち止まらず、とにかく走った。曲がり角を見れば曲がった。障害物があれば、その影に隠れるようにして走った。
犬が次の瞬間にも先ほどのように背中に体当たりしてくるのではないかという恐怖心が足に更に早く動かさせた。
何分ぐらい走ったのだろうか。気づくと立っていられないほどに疲労していた。俺は座り込んだ。すると自分の口から変な声が漏れた。「うっ・・・うっ・・・」それは自分でも抑えられなかった。嗚咽である。
何でこんな事をしているんだ。なんであの女性にちゃんと説明できなかったんだ。逃げ出さずに、
理路整然と言葉を紡げばきっと厳しい視線は穏やかなものになった。疑いは晴れた筈だ。
なのに・・・なのに・・・俺はまともに口を利くこともできず、変な気持ち悪い声で言い訳し、挙句の果てにはまさに犯罪を指摘された罪人そのものの如く、その場から遁走した。
いい年して何をやっているんだ・・・。もう大人と呼ばれるべき年齢なのに。
犬が悪いんだ・・・犬がきたから・・・犬が勝手についてきたから・・・。
俺は疲れた身体を無理やり立ち上がらせ、どうしようもないほど惨めな気持ちを抱えながら、誰の目につかないように、女性と犬に見つからないように、隠れながら、潜みながら、自分の家へと帰った。