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2008-09-23

ワンダーモモーイ決断主義

この世界には防げない つらいこともあるけど 同じ時を 生きていくの 今日もあなたとふたり

2008-04-02

http://anond.hatelabo.jp/20080402080447

 ロスジェネの一員として、「戦争を望む」などと思ったことは一度もないし、あれは、論壇向けのアピールに過ぎないと思っていた。あんなのを喜ぶのは左翼知識人界隈だけで、どうせ著者だけが注目されて終わるだろうと思っていた。


いや、全く。

つーかさ。なんかさ、なんかさあ。おかしいよ、みたいな部分がある。

つーか、コップの中の嵐だ。勝手にやってろみたいな。

何も、上だけの話じゃなくて。

例えば、

決断主義トークラジオAlive2 ビューティフル・ドリーマー

http://talkradioalive.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/alive2_ed70.html

を聞け聞けいわれて聞いてみたが、売り出し中の評論家宇野常寛)をどう戦略を立てて売っていくかみたいな話になってる。お前らが頭が良いのは分かった。でも、お前の人生設計なんてどうでも良いよ、正直。どんどん影響力の低下している論壇という狭い世界の中で、さも重要そうにみみっちい話をしている。

でも、なんつーか、スケールが小さいな、お前ら。みたいな。世の中を良くしようとかじゃなくて、自分の立身出世の方便な訳だね。みたいな。もういいよ。権威は消える運命にあるみたいだな。別に良いけどさ。

エリート立身出世しか考えていないし、左翼日本政府を責めることしか考えていないし、ネット右翼は言動は勇ましいけど、頭が悪いから快楽に流されて暴れるだけだし。もう、ワハハハな感じ。

2008-03-12

http://anond.hatelabo.jp/20080306023437

またブクマコメにいろいろと、というのは最後にまとめるとして。

http://d.hatena.ne.jp/repon/20080306#1204807516

これのブクマコメには、「長すぎて読めない」といっぱい書かれています。でも、考えてみれば、どんなにペナペナで内容薄くて会話文ばかりでページの下半分は全部空白、みたいな「誰でも読める」ラノベでも、たいていこのエントリよりは長いわけです。よって、「読めない」のは長すぎるからではない。

このエントリが読めないのは、

・もともとの弾さんとreponさんのやりとりからすっかり乖離したメタな話になってしまっていること。

メタな話だとしても、その中でも論理展開がメタメタであること。

からでしょう。ほめている人でさえ具体的な内容にほとんど触れてないのはその証拠。

順に見ていきましょう。

(1)「決断する」とはどういう事でしょうか?→「何らかの判断を主体的に行うことである」

ここに異論がある人は少ないと思います。

(2)決断は、本質的に論理性では解決できない「問い」から発する

 →また「決断」を要する場面というのは、パズルのような論理的判断が下せる問題ではなく、

  合理的な答えが複数あり、その中の一つを無根拠に選ばなければならないような事態に

  あるような場面です。

これは「選ぶべき答えが明白なら、『決断』なんて不要だ。よって、『決断』とは、『無根拠に選ばなければならないような事態』にすることだ」ということでいいのかな。

ふつう決断といえば、成功の確率とか、成功した場合のリターン、失敗した場合のリスク見積もってするもの(よって無根拠ではない)だと思うのですが、ここはとりあえず置いておきましょう(保留1)。

(3)ひとは「決断すること」を迫られる状況で、成長することがあります。「決断をすること」を迫られる状況が、教育的な効果を生み出すのです。

 →陪審員パスカルの賭け、労働者闘争を例に挙げて。

 (パスカルの賭けってこんな意味じゃなかった気がするがなあ。)

 →市場にも適用「その事業の成功の有無とは別に、その人は成長する」

これも、「そんな考え方もあるかな」というレベルでなら賛同できるでしょう。

(4)「決断すること」が有効なのは、「教育的な効果」を期待できるときだけ。

問題は上記、この部分の節のタイトルです。

まず命題として、『「決断すること」が有効なのは、「教育的な効果」を期待できるときだけ。』は明らかに偽です。工事現場で鉄骨が空から降ってきて、右によけるか左によけるか決断しなければ、教育効果云々以前に死んでしまいます。雪山で吹雪に閉じ込められて、決死の覚悟で下山することを選ぶかその場で助けを待つか、といったケースもそうでしょう。『「決断すること」が有効なのは、「教育的な効果」を期待できるときだけ。』というのは、まるで学校の授業のように、「誰かが教育目的で課題を出してくれている」ケースでしかありません。

それでもなぜ市民裁判制度に陪審員という形で参加させるのかと言えば、そのやり方でしか市民教育する場がないからです。

と、誰が考えているのでしょうか? 日本裁判員制度について言えば、少なくとも最高裁判所直接にはそうは言っていないようです。

陪審員制度が市民を成長させることがある」という命題が真だとしても、そこから「陪審員制度は市民を成長させるためにある」は導けません。

ていうかこういう発想自体、どこかに「教育目的で課題を設定する先生」がいるという前提に立っているのではないでしょうか。それは誰? 将軍様?

まして市場は、我々を成長させるためにあるわけじゃないでしょう。日本現在資本主義的な経済を採っているのは、そうすると競争生産性が上がるとか、あるいはそんなのは既得権益を得た資本家政府を牛耳っているからだとか、いろいろ意見はあるでしょうが、「教育のため」と主張する人はまずいないと思います。

ところがreponさんは、

しかし、「市場教育」は、二極化を目指したものではありませんから、そこで「負けた」ものを救う措置が必要になります。

市場教育のためにある」→「教育目的二極化を目指したものではない」という二重の飛躍をやってのけ、『「負けた」ものを救う措置が必要』と主張します。

『「負けた」ものを救う措置が必要』という主張自体には異論はないんですよ(BIがよいかどうかは議論の余地がありますが)。でもここまでの議論からこの主張を持ってくるのには無理がある。むしろ「ベンチャーを立てるとか、いろいろ挑戦できた方が社会全体の利得が上がる。でもそれで失敗して人生終わりじゃ誰も挑戦できないから、セーフティネットは必要だよね」という主張の方が筋は通っているでしょう。もちろんこれは典型的なマッチョ理論ですが。

「この金は自分一人で稼いだカネだお前ら手を出すな」と品性なく喚く人間は、教育と言うことがどういう事なのかを理解できていないのかも知れません。

学校の授業のゲームで「子ども銀行券」を取り合っているのならそうかもしれないけど、「市場教育のためにある」ことが証明できていないので、この文には意味がありません。

ていうかそれ以前に、『「この金は自分一人で稼いだカネだお前ら手を出すな」と品性なく喚く人間』って誰のことなんでしょう。弾さんもfromさんも、BI推進派です。

そして。

教育的効果を発する「決断」は、自分を「問われるもの」として「問う」者を想定し、自身が「問い」に応える立場に立つとき、はじめて成り立つのです。

まったくそのとおりです。これについてはまさに上で、『どこかに「教育目的で課題を設定する先生」がいるという前提に立っているのではないでしょうか』と書きました。

「すべての問いを有している審級」とは、全体主義権力に近い。

まったくそのとおりです。で、それって将軍様?

つまりね、全体主義権力を想定して論を進めてきたのはreponさんの方であり、弾さんじゃないんですよ。

実際には、幸い日本には、「真の目的教育価値であるということを隠しながら裁判員市場市民教育してやろう」と思うほどの有能な権力存在しないようです。

学校卒業したらそこはもはや学校ではなく、ゲームを仕切ってくれる先生はもういない。だからこそ、

32歳あたりで自分を決めるべき

・そんな会社なら、やめたほうが良かったんじゃないの?

といったアドバイス意味がある、かもしれない、わけです。

もちろん、このアドバイスが正しいかどうかはまったく別な話です。fromさんがここで書いてるようにいつまでも自分を決めないほうが気分よく生きられるのかもしれないし、あの時代、会社を辞めてたらもっとブラック会社にしか就職できなかったかもしれません。そういうリスクやリターンを勘案して、どう行動すべきかを決めるのが「決断」でしょう。

さて、ここで上記の「保留1」に戻ります。

ふつう決断といえば、成功の確率とか、成功した場合のリターン、失敗した場合のリスク見積もってするもの(よって無根拠ではない)だと思うのですが、ここはとりあえず置いておきましょう(保留1)。

reponさんによれば、

正しい方向を目指したから正しい方向に向かったのではなく、正しい方向と信じてその方向に向かい続けたからそれが正しくなるのです。その方向を目指したのが最初は単なる偶然に過ぎなかったのかもしれない、という事実を自身に隠蔽することで、「自分は正しい道を歩いているのだ」と信じ込むことが出来ます。

とのことですが、「最初は単なる偶然に過ぎなかったのかもしれない」という命題と、「すべて偶然だ」というのとはまったく別の話です。

この、まず行動する、という主体確立が最悪の形であらわれたのがファシズムでした。

だからさ、弾さんにしろfromさんにしろ「何も考えずにまず行動しろ」なんて言ってないってばよ。

この、まず行動する、という主体確立が最悪の形であらわれたのがファシズムでした。ファシズムの要求するものは、つねに行動の形式それ自体です。内容はどうでもいいのです。内容が空虚であるが故に、そこに向かって突き進むという形式を要求できるのです。

reponさんの文章には、

(1)市場には教育的な効果がある

  → 市場教育のためのものである

   → 市場教育のためのものであるから、敗者は救われなければならない。

(2)成功した決断には偶然も含まれる

  → 決断はすべて偶然であり、空虚だ

   → 空虚であるがゆえに、決断主義者はファシズムに突き進むのだ

という飛躍があります。(1), (2)ともに、最初の命題は真なのでしょう。でも次の「→」は論理的につながっていません。

こんな破綻した文章をブクマコメで賞賛している人は、ちょっと自分のリテラシを疑ったほうがいい。

あとは余談ですが、

でも、「問う主体」として想定されているdanさんが言えば

だれかが書いてたと思うんですけど、弾さんは将軍様じゃなくて軍曹さんでしょう。今の社会でたまたまうまくいった人が、ある程度成功の秘訣を知っていると想定するのはおかしくない。とはいえ、弾さんといえど人生は一度しか生きていないのですから、実は弾さんが現在の地位を得られた要因はほとんど運で、気付いてないのは当人だけ、という可能性も十分に考えられますが。

長くなったし引用も多いけど、reponさんのもとの文章よりかは読みやすいんじゃないかな。

というわけで今日のまとめ。

Marco11につける薬はない

以上。

ありゃ、ツリーの付けるところ間違えたんですが、これ、修正しても直らないんだっけ?

なんつーか、じじぇくよめとかけんとうはずれのこめんとがつきそうなよかん。いまのしゅだいはじじぇくじゃないっての。…というこめんとをいれておいたことをしょうめいするために、ぎょたくとっとこう。

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