2021-03-19

会いましょう

他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未いまだ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇ぺん、固もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早もはや判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚なお記誦きしょうせるものが数十ある。これを我が為ために伝録して戴いただきたいのだ。何も、これに仍よって一人前の詩人面づらをしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯しょうがいそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

 袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随したがって書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりであるしかし、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は感嘆しながらも漠然ばくぜんと次のように感じていた。成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。

 旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲あざけるか如ごとくに言った。

 羞はずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己おれは、己の詩集長安ちょうあん風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟がんくつの中に横たわって見る夢にだよ。嗤わらってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。(袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は昔の青年李徴の自嘲癖じちょうへきを思出しながら、哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐おもいを即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしるしに。

 袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。

   偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃

   今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

   我為異物蓬茅下 君已乗※(「車+召」、第3水準1-92-44)気勢豪

   此夕渓山対明月 不成長嘯但成※(「口+皐」の「白」に代えて「自」、第4水準2-4-33)

 時に、残月、光冷ひややかに白露は地に滋しげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖はっこうを嘆じた。李徴の声は再び続ける。

 何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依よれば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己おれは努めて人との交まじわりを避けた。人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。実は、それが殆ほとんど羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍ごすることも潔いさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大羞恥心との所為いである。己おのれの珠たまに非あらざることを惧おそれるが故ゆえに、敢あえて刻苦して磨みがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとして瓦かわらに伍することも出来なかった。己おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもんと慙恚ざんいとによって益々ますます己おのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己おれの場合、この尊大羞恥心猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有もっていた僅わずかばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為なさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄ろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょうな危惧きぐと、刻苦を厭いとう怠惰とが己の凡すべてだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸ようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼やかれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎ひごとに虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪たまらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巖いわに上り、空谷くうこくに向って吼ほえる。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処あそこで月に向って咆ほえた。誰かにこの苦しみが分って貰もらえないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯ただ、懼おそれ、ひれ伏すばかり。山も樹きも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮たけっているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易やすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡ぬれたのは、夜露のためばかりではない。

 漸く四辺あたりの暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処どこからか、暁角ぎょうかくが哀しげに響き始めた。

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