2020-11-16

イズムとつく服を着て

 〇〇イズムとかismとかそういう服を着るとちょっと強くなったような気がする。でもそれは服である時点でどこかしら過去性を帯びていて、つまり現在進行系で変化していく思考の変遷から零れ落ちているということでもあるのです。

 それは服なんだけど、着たら最後過去なっちゃうのだ。

 なので、僕から勧めたいことは基本的に、思想の上では服に頼ることを最低限に抑えることです。思想の上では裸でいること。これもまた一つの思想であるかと言えばそうではなく、柔軟に反省し柔軟に理解し、理解できていないことを認めること、それらの行為バランスよく行うことで、人間は違った風景を見ることができるようになります。同じ服を着たままなら、あるいは少しでも服に頼る姿勢に甘えているのであれば、その風景は固定されたままなので、少しでいいので、服を脱いで裸でいるという気持ちを味わうべきだと思います

 そして、基本的に服とかイズムというもの自分経験から編み出されるものです。「こういう経験をしたんだけれど、上手く整理できない」「こういう体験の中から、何か新しい発想を生み出せそうなのだけれど、自分には少し力不足だ」そういう時に服を着ることは間違ったことではありません。あくまで、その服は貴方が温かさを求めている時に、あるいは現状を凌ぐべき時に必要なのです。時には、却ってその服が重荷となることも、知っておくべきでしょう。


 主義とか思想とかismというもの基本的に人にとって、なければそれで良いものです。勿論、初めて袖を通したその心地よさをずっと味わっていたい気持ちは分かるのですけれど、基本的には人は思想に頼らなくても生きていけます。例えば、本当に自分にとって大事記憶とか想い出とか、そういうものがあれば、人は思想がなくても生きていけるのです。会話し、美しいものに触れ、そしてその記憶を誰かと共有することさえできれば、我々が思想必要とすることは本来ありません。

 とは言え、我々は常に美しい体験をのみ選び取ることはできません。時に、体験酷薄であり、それは冷たく薄い刃のように心の襞を裂きます。我々は、時にその刃によって自己を断ち切られさえします。切り裂かれ、本来状態に保っておくことのできない時だってあります

 そんな時、貴方は何かの服を着るべきなのかもしれません。ただ、貴方にとって何か美しい記憶とか、あるいは思い出すことで落ち着くことのできる体験とか、そういうものがあるならば、それは服に増して大切なものです。まずは、そういったものを取り戻しましょう。

 その上で肌寒さを感じられるのであれば、その時は服を着て下さい。でも、その服はずっと着ていると恐らく貴方背中を痒くしたり、あるいは初めて袖を通した時とは違った、苛々した気分にさせるかもしれません。そういう時は服を脱いで、何か想い出に触れて下さい。あるいは、美しいものに触れて下さい。そういう時には、服を脱いで身軽な心地でだらりとするのが一番なのです。

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