すごくわかる。
異性愛者の男性は、精神的には常に女性に服従することしかできない。あらゆることにおいて下手に出なければならない。
それは女性がそうしろと要求するからではなく、女性を大切にしなければならない男性のさがである。いや、本当はこれは男性のさがではなく、人間のさがなのだ。なぜなら、女性だって女性を大切にしなければならないからだ。女性が守ろうとするのはまず自分、つまり、最も大切な女性であり、次に他の女性であり、最後に男性である。同様に、男性が守ろうとするものは彼にとって最も大切な女性であり、次のほかの女性であり、最後に男性、つまり自分自身である。
だから、女性は常に自分を優先することができる、いやむしろそうすることが社会によって要請されている一方で、男性は常に自分を劣後させなければならない。
そのことは、家庭という、人間社会の最深部に女性をおき、辺境に男性を送り込んできた人類文化のバックボーンであり、社会の変革によって容易に変わるようなものではなく、多分に生物学的なものである。
このような生物種において、いわば使い捨ての駒である男性として生まれてきてしまった個体は、肥大する自尊心と、自分が男性であるということの矛盾に悩むことになるが、その相矛盾する二つの事実を整合させるための思想がマッチョイズムであり、性役割である。つまり、男らしいことは誇らしいことであり、自分が汚れ役を引き受けるのは、そのような役割に見合うだけの、女性にはない高い身体能力によるにだと理屈をつけるのである。
こうして男性は、その役割を全うするために競って能力を磨き、他の男性を圧倒することを美徳とするが、ときに、女性という、自分より上の階級に属する個体を意識した時は、女性に対して自分が能力的により優れていることを確認したいという欲求が生じる。そのもっとも確実な方法が、体力、腕力を示すということなのだ。
また生物学が言葉遊びの犠牲になった
腕力に逃げざるを得ない状況に追いやった社会が悪いな また権力勾配理論により上の階級である女に対しての男の腕力行使は大幅な情状酌量が認められる