例えば「上から目線」という言葉が示すのは「当事者ではないけどこう思う」という姿勢に対してではないか。
逆に「下から目線」というと「当事者としてこう思う」ではない。
「かつて類似する事例において当事者であった身としてこう思う」ではないだろうか。
「人生の先輩としてこう言っておきたい」というのは上から目線だろうか?
「自分程度の人間がこの様なことを言うのは憚られるのですが〜」というのはどうか。
遠慮しているように見えて意見してるじゃん!って思うのだろうか・・。
知らない人間が知らない人間の不正行為をあげつらうという現象が横行している(ように見える)が
自分の信ずる常識から逸脱した行為を目撃すると不快感を生じ、短文として発信する行為をしてしまう人間を
外から眺めていると気づく。
自分の利益を顧みず困っている人を助け、どのような人間の立場も尊重し、事件の内情をよく観察し
先日、メロン農家の被害をおもしろおかしく書いていたツイートを批判する投稿を見たが、
批判されていたツイートを発信しているアカウントはBOTだったという。
人は見た目が100パーセントというタイトルが頭を過ぎった。
その先にある風景は、目の前の「許せん言動」の前にかき消えてしまうことを物語っていた。
そうして、本当に問題になっている事自体が忘れられていくのではないだろうか。
しばらくして現れる、一番叩いても問題にならない「目立つ敵、悪」のみを叩いてやっつける。
こういうことではないだろうか。
すべての行為に対して「自分の肉体と行動が一致し、社会責任を全うする必要がある」と言われれば
人は何も語ることが出来ないだろう。
しかし、無責任であることを盾に、何をやっても良いということが起こり続ければ
いつかその無責任は、責任を持つ必要がある、というルールによって上書きされてしまうのではないだろうか。
実は、そのような社会は既に民衆自身の手によって作られ始めているのではないか。
「許せん行動」を行った人間を徹底的に調べ上げ、実名を暴くという行為は
「自分の肉体と行動が一致し、社会責任を全うする必要がある」という状況を、はからずもつくっているのではないのか。
というポエムだ。