うーむ、やはり「うれしくなりました」の方がよかったのかな。
確かに兵十が贈り物は神様からだと思っているのを悔しがる描写は出て来たし、
自分の思いやりに気付いてくれて「うれしくなる」のは、
「自分を高く評価してもらいたい」という利己心とはちょっと違うし、
仮に「自分の償いに気付いてほしい」という感情が利己的であったとして、
「撃たれて尚恨みも持たず、贖罪を果たしたこととその贖罪に気付いてもらったことに満足する」姿が自己犠牲的過ぎて、
悪い印象は打ち消されてしまうもんね。
主人公だって聖人君子じゃないから「自分の善行を知ってもらいたい」という気持ちは自然に湧く感情だろうし、
その方が読者の親近感を得られる。
それでもあまり露骨に登場人物の感情を表現するのは無粋だから「うなずきました」という選択肢も捨てがたい。
「うれしくなりました」が「自分の償いを評価してもらいたい」という感情を持っていることを確定してしまうのに比べ、
まだごんの心情に想像の余地がある分物語に深みを持たせる気もする。
「償いをしたのに撃たれて悔しい、償いなんてしなきゃよかった」って思っててもいいかもしれない。
いいことしようとしたつもりが誤解されて馬鹿を見ることもあるから、
人から恨みを買わないようにしなさい、という教訓として使うほうが、子供たちの未来にとっては有用だろう。
「やっと俺だって気付いてくれた。償いをしようとしていたことを分かってもらえた。誤解されながらも償い続けた甲斐があったなあ」
って思っててもいいかもしれない。
最初は誰にも気付かれなくても、根気強く努力を続けたらいつか認めてもらえるという教訓になるかもしれない。
あるいは「もう兵十に栗と松茸を贈ってやれなくなるのが残念だなあ」って思ってるかもしれない。
善行をするなら正しく他人にアピールしないと、
保身ができなければ結局その善行すら満足に達成できなくなるぞ、という教訓になるかもしれない。
いずれにしても、この寓話はある程度世間の汚さや人生の不条理、生と死を理解できる(直視できるようになる)
それ以前の段階だと、ごんの死を受け入れられない子供が多いから、この年齢向けなのだそうだ。
いいことをしていたのに殺されてしまうはずがない、とこの物語の残酷さを直視できないからだと。
仮に近年この物語が掲載されなくなっているとしたら、それが原因だろう。
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