2012-07-09

http://anond.hatelabo.jp/20120707224513

うーむ、やはり「うれしくなりました」の方がよかったのかな。

確かに兵十が贈り物は神様からだと思っているのを悔しがる描写は出て来たし、

自分の思いやりに気付いてくれて「うれしくなる」のは、

自分を高く評価してもらいたい」という利己心とはちょっと違うし、

仮に「自分の償いに気付いてほしい」という感情利己的であったとして、

「撃たれて尚恨みも持たず、贖罪を果たしたこととその贖罪に気付いてもらったことに満足する」姿が自己犠牲的過ぎて、

悪い印象は打ち消されてしまうもんね。

主人公だって聖人君子じゃないから「自分善行を知ってもらいたい」という気持ちは自然に湧く感情だろうし、

その方が読者の親近感を得られる。

それでもあまり露骨に登場人物の感情表現するのは無粋だから「うなずきました」という選択肢も捨てがたい。

こちらの表現だと兵十相手にアピールしている感があるものの、

「うれしくなりました」が「自分の償いを評価してもらいたい」という感情を持っていることを確定してしまうのに比べ、

まだごんの心情に想像の余地がある分物語に深みを持たせる気もする。

「償いをしたのに撃たれて悔しい、償いなんてしなきゃよかった」って思っててもいいかもしれない。

いいことしようとしたつもりが誤解されて馬鹿を見ることもあるから

から恨みを買わないようにしなさい、という教訓として使うほうが、子供たちの未来にとっては有用だろう。

「やっと俺だって気付いてくれた。償いをしようとしていたことを分かってもらえた。誤解されながらも償い続けた甲斐があったなあ」

って思っててもいいかもしれない。

最初は誰にも気付かれなくても、根気強く努力を続けたらいつか認めてもらえるという教訓になるかもしれない。

あるいは「もう兵十に栗と松茸を贈ってやれなくなるのが残念だなあ」って思ってるかもしれない。

善行をするなら正しく他人にアピールしないと、

保身ができなければ結局その善行すら満足に達成できなくなるぞ、という教訓になるかもしれない。

いずれにしても、この寓話はある程度世間の汚さや人生不条理、生と死を理解できる(直視できるようになる)

ある程度成長した子供しか与えられないだろう。

小学校四年生教科書に掲載されているそうだが、

それ以前の段階だと、ごんの死を受け入れられない子供が多いから、この年齢向けなのだそうだ。

いいことをしていたのに殺されてしまうはずがない、とこの物語残酷さを直視できないからだと。

仮に近年この物語が掲載されなくなっているとしたら、それが原因だろう。

手袋を買いに」が掲載されなくなっているとしたらその理由も母狐の冷淡さが原因なのだろうが、

そういう理不尽現実直視させる教材こそ子供たちにとっては必要だと思うんだけど。

記事への反応 -
  • 誰もが知っている不朽の名作「ごんぎつね」「手袋を買いに」 最近の国語の教科書には掲載されていないとかいう情報を耳にした。 真偽のほどは定かでないが、事実だとすれば理由はい...

    • うれしかったのかどうか読者に想像させるに留めて客観的な状況だけ描写したほうがいいようにも思うし、 しかし「感謝されたかったという思いが叶って満足なのか、自分の評価が大...

      • うーむ、やはり「うれしくなりました」の方がよかったのかな。 確かに兵十が贈り物は神様からだと思っているのを悔しがる描写は出て来たし、 自分の思いやりに気付いてくれて「う...

        • 「手袋を買いに」が採用されなくなってきているとしたら、それは母狐の冷淡さがどうこうっていうか単純に世の中が冷淡だからだと思う。 「誰にでも元気よく挨拶しましょう」じゃな...

    • 両方に共通して言えることだと思うけど、昔の人は自分の行動に言い訳をしない人が多かったんだよ。 そういう時代背景があって書かれた話だと思う。だから、今の感性からすると、な...

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