「手袋を買いに」が採用されなくなってきているとしたら、それは母狐の冷淡さがどうこうっていうか単純に世の中が冷淡だからだと思う。
「誰にでも元気よく挨拶しましょう」じゃなくて「知らない人とは口を利いてはいけません」ですからね。
この物語をうのみにして子狐を買い物に送り出すなんて昨今の親狐は怖くてできねーだろ。
そも作中でなぜ母狐が恐ろしくって人間の町に行けないかと言えば、狐であるという一点で害獣扱いされて恐ろしい目に遭うかも知れないと思っているからだ。
害獣として害をなした現場を押さえられて恐ろしい目に遭う~じゃなくて、自分が狐だから追い回されるかもしれないと思ってる。事実仲間に前科があるわけだし、釈明するより先にぶんなぐられるかもしれない。
でも理屈でいけば、木の葉じゃない真っ当な金持って礼儀正しく頼みに来たんなら、例えそいつが狐でも追い返すんじゃなくて品物を売ってやるべきだ。店って本来そういう場所だ。
今はそういう理屈が通らない世の中だ。親の因果が子に報うどころか、因果も何もない子どもでもろくでもない目に遭うリスクが高くなった。
だから「しかるべき警戒心」を削がないために教科書に載せないんじゃないの。知らんけど。
あと「ごんぎつね」の「うなずきました」は何つーか、ぶっ放されてぐったりというシーンであるのも相まって、
「痛ッたそおおおおおおおうわああああああああ」って感じで何かもう心境とか考察させる教師はアホじゃねーのと思っていました少年時代。
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