はてなキーワード: 「鏡」とは
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
マッチングアプリ、不細工は出会えないだの低収入はマッチすらしないだの、ちょっと手を出してすぐ諦めただけな奴の寝言ばっかり。
俺たちみたいなのが女入れ食い状態になるとでも思ってたのか?話しかければまともに相手してもらえて当然だと?マッチングアプリという魔界で自分が人間扱いしてもらえるとでも???
あのな。マッチングアプリで日夜行われているのは「会話」じゃねーんだ。
「性欲と承認欲求の交換」これだ。
なに「会話」しようとしてんだ。おめーらは。バカか。人間にでもなったつもりか?
相手のプロフィールから「こんな人間だと思われたい」という欲望を嗅ぎ取って、そんな理想の相手を映す「鏡」になりきるんだよ。
大体、本気でマッチしようと思ってるなら当然一度は性別を女にして登録してみたよな?
性別を「女」にしただけでロクにプロフィールなんか編集しなくても男からのいいねがバカみたいに飛び込んでくるだろ?
プロフィールは参考にするために読むんじゃない。それらの中でどう差別化するか考えるんだよ。
300人分もプロフィール読んでたらうんざりするだろ?そう!うんざりしてるんだよ。そのうんざりにどう一服の清涼剤になるようなコントラストを付けるか考えるんだよ。
マッチした相手が一言目に送ってくるチャットの文言メモしたか?
大体みんなしょうもないんだよ。内容なんてない。マッチしたまま話しかけてこない奴も多い。
だから臆せずメッセージを送りまくろう!と思ったか?だからダメなんだよ。
有象無象から送られてきたメッセージなんてお情けで何回か返事してくれるかもしれないが、よっぽど面白いやり取りじゃなければ長続きしない。
じゃあどうするかって?待つんだよ。
たまに、たまーーーーーーーーーーに女からメッセージが来る。プロフィールの文章の面白さ次第だけどな。月に一人そういう女が捕まればいい方だ。
そいつを逃すな!!!向こうから話しかけてきたくせに何の話題もないなんて当たり前だ。イライラすんなよ。
多少つまらなくても向こうから話しかけてくれた場合はかなりの確率で会話が続くはずだ。
俺はこのやり方でまだひとりも出会えてない。
助けてくれ。
好きな歌のワンフレーズなんだけど、日本語として違和感あるかないかすげえ微妙なライン
でも、「今から私が踊りますので、皆さんは鏡みたいに動いてくださいね〜」って言われて、ヨッシャー鏡みたいに不動を貫くぞ!とはならないし、普通に考えてまあ鏡に写った像のように動くだろう
鏡のように手を伸ばす、って言ったら、そりゃもう、こっちが手を伸ばすのと同じように手を伸ばし返すってことに決まっている
鏡のもつ物理的なプロパティ(かたい、動かない、冷たい等)を真似ながら手を伸ばしてほしいって意味なわけがない
鏡像だったらなんの文句もないんだけど、鏡だとなあ!鏡は鏡だもんなあ!
鏡は鏡、世界で一番美しいのは鏡、だもんなあ!
彼は君と別れて寂しかったのでは?
彼はおそらく「鏡」が必要な人で、君を通して自分を見ていたのだと思うけど、それは人類の多様性として責められることじゃあない。
それで君と別れたから他の「鏡」を求めて利害の一致する人がいたから付き合ったのだとしたら、その期間の短さは問題ではないよ。
これは別に君をモノとして扱ったとか、そういうのとは全然別次元の話で、あくまで人が人とどう向かい合うかというなかの一例にすぎない。そういう所謂価値観を、互いに変えられる・変えてもいいと思えることがつまり恋愛的瞬間で、お互いにそれができなかったのならば、恋愛的瞬間を迎えられなかった一例にすぎない。
どちらも悪くはないが、巡り合わせが悪かっただけ。
(他国でも自己犠牲を賛美する風潮はあるが、露骨に特攻を命令するのは貴重な兵士というリソースの無駄使いであり、普通はありえない
今の日本の政治家も悪党としては小物感が漂いすぎてて、こすいというかケチというか
WWIIもそうだけど、上層部は小悪党なのに強い言葉(コロナに勝った証とか)を言うだけで、結局は全部現場に丸投げでしかない
現場に丸投げというなら米国のベトナム戦争もそうだったわけだけど、流石に特攻を命令したり賛美したりはしない
(ベトナム戦争は北軍のゲリラ戦術が勝因ではなく、実際は中ソが米国への核攻撃を匂わせたため、米国は核による脅迫という外交で負けたのである
特攻が嫌で徴兵から逃げた息子を親が捕まえたり、特攻するために出兵する息子を親もご近所も万歳三唱したり、
GHQに支配されても、やっぱり日本人の本質は変わってないんだと今回のコロナでも思ったよ
国難というか、困ったことが起こると先に精神論に持ち込んでしまう
日本人以外に頑張る系の自己啓発は基本的に「ダルい」という反応しか得られれないと思う
(そうすると従業員やチームメンバーがついてこなくなるため、上層部は妥協案や合理化を考える
良くも悪くも基本的に真面目、
だから、上の人間にその真面目さを体よく利用されやすいのだと思う
付け加えるなら、ズルをしてでも敵国に勝つ、ズルをしてでも勝って支配する、領土を奪うという「欲」がない
キリスト教だってプロテスタントは「合理的禁欲」という考え方が根本にあるため、
お金を無駄使い散財しない→いざというときのために貯蓄する→資本主義
という流れがあったが、しかしあくまで「合理的」禁欲であり、仏教のような無欲を良いものとは考えていない
そもそも、無欲になりたい、という欲で座禅や修行をしているというトートロジーがある(一休宗純
うろ覚えだが、アニメのコードギアスでもシュナイゼルには「欲」がなかった
欲や執着心がないことがかえってルルーシュに負ける敗因になってしまった
自己啓発などで欲や執着を捨てようというネタもよく散見されるが、これはバランスの問題であって、
欲や執着が自分を苦しめるなら量を減らすべきだが、欲や執着がなければなんの成功にもたどり着かない
老後になったらオレオレ詐欺で無一文になっても構わない、なんてことはない、
それでは明日から生きていけないわけで、死ぬまでお金や何かに人間は執着するべきなのである
そう考えてみると、この国はコードギアスのシュナイゼル側に似ているとも思える
欲や執着心が足りないのに、「美しく」勝利しようとする
これが自分には良くないように思う
「美しい国」だの「国家の品格」だの言い出した時点で、アベはシュナイゼルにどこか似ているように思う
持論だが、まず「美しく勝とう」などと考えてはならない
大切なのは「みっともない形でもまずは目標を達成する」ことである
ダクトテープによるプロトタイピングとか、まずはみっともなくても完成させる、目的を達成することである
この段階から「軍神」がどうのとか、戦場に美的感覚を持ち込みすぎてはならない
勝利よりも何よりも、まずは目的を細分化し、その1つ1つをみっともないながらも達成していくことである
そして、そこから今度はそのみっともないものをブラッシュアップしていくことである
私は格闘ゲームをやったことがほとんどないのだが、人間がコンボを入力するのはバカげている、
キー操作を記録して一発のキー入力で技が発動できないか、みたいなことを考えるのである
WWIIの日本は、根性でみっともない形で達成しても、それを合理化、単純化しようとしない傾向があるように思える
また、そういった合理化や単純化を悪としたり、そういうのは美しくない、みたいな余計な美観が介入しているように思える
ズルをしてでも勝たなければならない
軍神がどうの、天皇がどうの、そういう美観を戦場に持ち込んではならない
そういう意味で、仮想敵国である中国はやはり良くやっているように思わざるをえない
ホリエモンだったか、自著の自己啓発本で「真似される奴になれ」とか偉そうに書いているらしいが、
真似をするというのは一位の背中にピタリと追随してスリップストリームを利用して走る二位のようなものである
そんな二位がゴール手前で一位を押し倒して一位になってしまうものである
たしかに「真似される奴」はオリジナルであり、ブレイクスルーを作り出すものであり、偉大な存在である
しかし、ホリエモンは起業家としてビジネスの歴史をそれなりに知っているはずではないのか?
ビジネスの世界で意外と最後に勝利するのは二番手だったりすることが多いのである
シュナイゼルについてうろ覚えなのでググってみたが、この文を書いていて、ついアベ氏と似ていると書いてしまったが、
goldhead氏だったか、安倍晋三氏がテレビで演説しているのを観て、
なんて空っぽで空虚な人なんだろう、みたいに思ったようなことをブログだかに書いていたと思うのだけど、
それは自分も同感であって、
安倍晋三氏=シュナイゼルと考えると意外と彼という人物を理解できる気がしてきた
まず、生まれながらにしてすべてが揃っているため「欲」がない、執着がない、
そして、「周囲が望むことを喋り、実行するだけ」の、
ある意味、気味が悪いぐらいよくできた長男みたいな人物だということだと思う
それが見える人には見えるのだけど、見えない人には見えない
なぜなら、安倍晋三氏が空虚に見えない人にとって、そういった一部の大衆が望むようなことを声高に喋るからである
自分のフラストレーションを代弁してもらっているような気分になるから、彼が空虚に見えない
しかし、その崇め奉っている彼は単なる「鏡」でしかないのである
端的に言うなら、二世だから出自が恵まれすぎている、生まれてこの方金銭関係などで大した苦労もない、
それが人間性に反映されて「欲」がない、
しかし、悪い意味で「いい子ちゃん」だから、周囲の望んだことを喋る、
そうやって有権者中の有力者の気持ちを代弁することで味方を増やす、勢力を付けるという戦法だったように思う
そう考えてみると、私はマシュマロ・テストというのがやはり解せないのである
今はルルーシュにくれてやるとしよう、みたいな台詞がうろ覚えだがあった気がする
もちろん、戦争であれ何であれ、意図的に負けてやる、忍耐みたいな姿勢も大事であることは理解できる
しかし、マシュマロ・テストというのはあれも極論めいた話であって、場合によるのである
では、目の前のマシュマロを誰よりも先に奪わなければ死ぬとしたらどうだろうか?
ホッテントリになってる早稲田の人研のインタビューで書いてるように、
鏡を見ても「現実の自分と理想の自分の乖離」みたいなのを感じない人は問題ないんだよ
でも、その身の丈を自覚してないというか、山月記の肥大した自尊心というか、
「現実を見ろ」「俺が用意した鏡を見ろ」
とは言ってるんじゃないかと思うし、それはそれで自戒を込めてだったり、
ちょっと嫉妬というか、悪い言い方をするなら、庵野氏は優れすぎてたんだよ
それは「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」の前からすでにそうだったと思う
なんというか、はしゃいでるオタクとか、若い世代とか眺めては、
そこは俺がとっくに通過した地点であって、おまえら甘いなあ、
みたいに思ってたと思うし、
シンエヴァは知らんけど、旧劇とホッテントリのインタビューを読んで、
非常に面白いと思うんだけど、どこか自惚れというか、そういうのも感じられる
謙遜しているけど、庵野氏自身としては最善を尽くして出し切った感があっただろうし、
内容に対して、BBSなどで「庵野○ね」みたいに書かれて腹立ちもあっただろうけど、
内心は「勝ったな…」「ああ…」だったと思うんだよなあ
ちょっと話が脱線するけど、Amazonなりネットのレビューを見ていて面白いのは、
例えば「主人公が酷い目に逢いすぎるので☆1つです」みたいな評価を下す人がいて、
視聴者や読者の感情を作品で操作できてる時点で「作者の勝ち」だと自分は思っていて、
まあ、それは炎上マーケティングと似て非なるものだとも思うんだけど、
つまり、毒にも薬にもならないぐらいなら、猛毒を盛った方が作品としては面白い
というか、不愉快であれ、胸くそ悪いであれ、印象には残るわけだ
印象に残らない作品よりはよっぽどいいと思う
あるレベルを越えるとマスの客は単に不愉快なので逃げてしまって、露悪趣味の客だけ残ってしまうわけだけど、
それはそれでニッチを狙ってるともいえるわけだけど、売れる作品ではなくなってしまう
話を戻すと、現実を見ろ云々だけじゃなくて、庵野氏としては天然か意図的かは知らないけど、
それは上述したように、毒を混ぜないとつまらない作品にしかならないから
だから、「現実を見ろ」という主張をエヴァには混ぜたけど、他の作品には混ぜてないかもしれない
それは庵野氏にとっては主張自体もどうでもいいというか、それも作品を盛り上げるためのスパイスでしかない
庵野氏自身は「現実を見ろ」と昔から深くは考えていないのかもしれないけど、
エヴァに「現実を見ろ」という主張を混ぜたら、観客はどう思うかな?炎上するかな?
そういう作中に作者が込めた意図的な挑発に単にのる人は、作品にのめり込み過ぎてる人、つまり、現実を見ろの対象であって、
そうではなくて、作り手側の立場で考えられる人はエヴァのラストもそんなに怒らないと思うんだよね
自分で言うのもなんだけど、自分もエヴァのラストには怒らなかった
というか、TVの25、26は作画崩壊ネタにも思えたし、エヴァはループしてラブコメになってるのも良かった
「え?ここまで視聴者を引っ張り回して、なんの謎も解決しないまま、全部夢オチというか冗談でしたで終わっちゃうの?」
と怒る人は怒るんだろうけど、
なんかそれがガイナックスらしさというか、DAICONフィルムらしさというか、まあ、無責任だとは思うんだけどw
結論としては、庵野氏自身に「現実を見ろ」という信念みたいなものは多分ないんだと思うんだけど、
エヴァに敢えて「現実を見ろ」という演出を込めたら、BBSに「庵野○ね」とか書いてる奴らは顔真っ赤にするかなあ、
だから、そこを楽しめる人でないと怒るんだと思うんだよなあ
あと、自主制作の帰りマンも庵野氏がウルトラマンやっちゃってるけど、あれは自主制作だから許されるんであって、
流石の庵野氏も円谷プロからも依頼されたシンゴジラでは、そういうことはやらんわけだよ、当たり前だけど
でも、自分としては円谷プロは今の東京オリンピックと同じように、お家騒動とかでゴタゴタして会社は傾かせるし、
インタビューで、今のウルトラマンは過去のウルトラマンのメタファーでしかない、みたいに言ってるように、
あの辺が限界だったんだろうなあとか、庵野氏は大人になった、丸くなったんだなあ、とか思って、
それがちょっとつまらない一因でもあったんだけど、まあ仕方がないとは思うんだよね
インディーズで売れない時代にライブで負傷者を出すようなステージパフォーマンスがあってもいいけど、
というか良くはないけどw
売れて日本でいうならミュージックステーション?に頻繁に出るぐらいの知名度を得たのに、
インディーズ時代のノリでステージパフォーマンスで負傷者出したら、マスコミとかに叩かれて消えてしまうだけだと思う
だから、シンウルトラマンも庵野氏がウルトラマンになることは絶対ないんだろうけどw
インタビューで語ってたように、初代ウルトラマンって沖縄問題とかイデオロギーとかのメタファーだった、
どっちかというと左翼的というか、学生運動的な臭いもあったと思うのだけど、
彼なりの初代ウルトラマンのようなイデオロギーのメタファーのウルトラマンが観れるんだろうなあと期待はしてる
ただ、自分としては上述したように、初代ウルトラマンのイデオロギー、左翼的とも言える面は面白いんだけど、
プロ市民とまではいわないけど、普段から少しはそういうことをぼけっとでも考えている人なら、
初代ウルトラマンみたときに、あー、難民問題みたいなもんだよな、バルタン星人、とか思ったりするわけなんだけど、
当然、子供はそんなこと考えないで構わない、正義が悪を倒すのを観て消費してくれればいいし、
大人になって改めて観て、初代ウルトラマンを作る側が何を考えていたのか、意図してたのかを考えてみるのもいい
というか、そういうイデオロギーを作品にスパイスとして込めておくことで、そういう奥深さが演出できる
そこに意味を持たせすぎると、「〜するべき」みたいなべき論を伝える説教臭い作品になるわけで、
そこから視聴者それぞれが自分勝手に自分の人生と重ねたり色々自由に考えて自由な感想を持ってくれて構わないと思うんだよね
だから「現実を見ろ」も庵野氏のスパイスのあくまで一つであって、それは昔から使っていたのかもしれない
使ってても視聴する側が気が付かないだけということもあるし、それはそれで構わないんだと思う
どっちも高くないで
単純に読む必要性を感じないだけ
あというほど読書家か?ブクマカどもは増田程度の文量も読めないよ
2020-07-11
ブクマカさんはてなーの大好きなクオリアおじさんこと茂木先生の本が出るよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200711093806
クオリアと人工意識 (講談社現代新書) (日本語) 新書 – 2020/7/15
その「鏡」の中には、果たして、「クオリア」に満ちた私たちの「意識」もまた、映っているのだろうか?
人工知能をつくることは、「人工意識」を生み出すことにつながっていくのだろうか。
<本文より>
〇眠る前の「私」と、目覚めた後の「私」はなぜ同じなのか?
〇私たちは、「ホモサピエンス」(知性を持つ人間)である以上に「ホモコンシャス」(意識を持つ人間)である。
〇物質に過ぎない脳から、「意識」や「クオリア」が生まれてくる不思議。
〇人工知能をめぐる議論に、ときに驚くほど終末感が漂うのはどうしてなのか?
〇記憶を「外套」だとすると、脳は、その外套を引っ掛けておくための壁に打たれた「釘」に過ぎないという考え方。
〇「私」という「意識」は、この宇宙の全歴史の中で一回だけのものであり、一度死んでしまえば二度と戻らないという「セントラルドグマ」は正しいのか?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200711093806
クオリアと人工意識 (講談社現代新書) (日本語) 新書 – 2020/7/15
その「鏡」の中には、果たして、「クオリア」に満ちた私たちの「意識」もまた、映っているのだろうか?
人工知能をつくることは、「人工意識」を生み出すことにつながっていくのだろうか。
<本文より>
〇眠る前の「私」と、目覚めた後の「私」はなぜ同じなのか?
〇私たちは、「ホモサピエンス」(知性を持つ人間)である以上に「ホモコンシャス」(意識を持つ人間)である。
〇物質に過ぎない脳から、「意識」や「クオリア」が生まれてくる不思議。
〇人工知能をめぐる議論に、ときに驚くほど終末感が漂うのはどうしてなのか?
〇記憶を「外套」だとすると、脳は、その外套を引っ掛けておくための壁に打たれた「釘」に過ぎないという考え方。
〇「私」という「意識」は、この宇宙の全歴史の中で一回だけのものであり、一度死んでしまえば二度と戻らないという「セントラルドグマ」は正しいのか?
クオリアと人工意識 (講談社現代新書) (日本語) 新書 – 2020/7/15
その「鏡」の中には、果たして、「クオリア」に満ちた私たちの「意識」もまた、映っているのだろうか?
人工知能をつくることは、「人工意識」を生み出すことにつながっていくのだろうか。
<本文より>
〇眠る前の「私」と、目覚めた後の「私」はなぜ同じなのか?
〇私たちは、「ホモサピエンス」(知性を持つ人間)である以上に「ホモコンシャス」(意識を持つ人間)である。
〇物質に過ぎない脳から、「意識」や「クオリア」が生まれてくる不思議。
〇人工知能をめぐる議論に、ときに驚くほど終末感が漂うのはどうしてなのか?
〇記憶を「外套」だとすると、脳は、その外套を引っ掛けておくための壁に打たれた「釘」に過ぎないという考え方。
〇「私」という「意識」は、この宇宙の全歴史の中で一回だけのものであり、一度死んでしまえば二度と戻らないという「セントラルドグマ」は正しいのか?
某日ネットで調べ物をしていたら、ある単語が目に止まった。「(増田)のブログ」という、そのまんまなタイトルのブログ。
その(増田)は私のアダ名である。名前由来だが名前が珍しいのでアダ名も珍しいのだ。
ブロガーの増田さんとやらも、私の名前と似ているからアダ名が似ているようだ…が、さすがに同名ではなかった。ブログにフルネームが上げられていたからわかったことだ。一般人が趣味でやってるっぽいブログにフルネーム出すのか。このご時世、せめてボカさないのかと思いつつ、つい読み込んでしまった。
驚いたことに、その増田さんは年こそ違うが顔身長体型と私そっくりで、肝心の内容が…ファッションブログなのである。
毎回毎回、ドヤアァァァッ!と読者モデルかインスタグラマーばりにすんごい決めポーズの写真を挙げている。
私の(ような)顔が。私の(ような)体型で。
ポージングだけは素晴らしく立派なのだが、その、私に似ているその顔を、一切加工せず丸出しで。
ファッションブログ(?)なのに自撮りは鏡の大きさがテキトー。というか小さすぎて玄関周りの靴傘まで見切れており、もはや洋服ではなく「鏡」本体がモチーフな錯覚に陥る。
第三者撮影でも撮影者の影がガラスなどに丸見え。本人より前に置いた荷物がしょっちゅう写り込んでいる。
街で撮ると背景がごちゃごちゃ、あるいは現在地の情報(住所出てる店の看板など)丸出し。
本人の顔の真後ろに各回、社内向けの掲示やスイッチ、消火栓などが丸写り(余白から推測すると、もう少し左右どちらかに移動すれば壁が真っ白な気がする)
レンズの曇りや汚れっぽいのもそのまま(加工ではないボカシと化す)