はてなキーワード: 法学部とは
文化とか情報とか全てが東大法学部の価値観で作られているよね。東大法学部生はまさに日本社会の全政治を手中に収めている。彼らにとってはお金さえもどうでもいいものなのだろう。なぜなら政治の全権を握っているから。社会に起こりうる政治的現象は東大法学部の知識によって予め封じ込められている。我々がもっとも欲しがっているこの権力を東大法学部は持っているというわけだ。うらやましすぐる。
東大法学部は国民全員参加の知力競争における文系偏差値最高峰東大文1の合格者から内定が許可されます。
他の類からも入れますが、教養学部での高い点数が要求され、文1からの内定者が400人なのに対して
、せいぜい10人程度です。東大法学部は特権階級なのです。現代社会の公家社会の幹部といえます。
そして受験競争は勢いが衰えないどころか、ますます加熱し、東大法学部志願者はあいかわらずたくさん居ます。
その理由は、結局日本は、東大法学部支配が続くという正しい直感があるからでしょう。
公務員バッシングや公務員制度改革は、国民のガス抜きのためのフェイクだろうし、
この微妙な時期に民間活力を生かしてその場をしのぎ、社会が安定してきたら官僚が復権することを
そりゃまあ、法学部は特殊。あれは他の学部と違って、成績というかテストの点数が異常に重視されるから。学卒助手なんてのがいるくらいだもんね。それって、初任給で言うとコンサル並みにおいしいよね。生涯年収でも普通の一流企業よりよくなるわけだし。そういう意味で目先の利く奴が目指すところだろう。要するに「勉強」の能力が研究の能力と同一視されてる。他の学部だと大学院時代にどれだけの論文や発表をできてるかというところが基準になるから、そこは区別されてる。
それに、法学部でいい成績を出すということは、学卒助手になれなくとも、司法試験や公務員試験などでいくらでもつぶしがきくわけだしね。純粋数学をやって、末は教授かニートかなんて賭をやる人とは条件が違いすぎるんですよ。
横から割り込んで申し訳ないけど。
国家機構の中のお公家となるには、戦前は三つの登竜門があった。東京大学と陸軍士官学校と海軍兵学校である。戦争に負けた結果、陸海のエリート(士官)養成学校は廃止されたので、戦後60年、唯一の登竜門として君臨してきたのが、泣く子も黙る東京大学法学部である。
それとは別に、氏(うじ)はさまざまながら、きわめて自然にお公家さんに成っていくグループもある。政界とか大手企業の三代目がそれにあたる。
三代目の特徴は、いろいろあるが、「売り家と唐様で書く三代目」と江戸川柳にもあるように、まず経営能力(戦闘能力)が欠けていることを挙げることができる。企業でいえば、一代目が築き二代目が拡大した事業を、三代目でぶち壊す、というのが江戸期からの伝統的な有り様(ありよう)である。
彼ら三代目は極めて「ジコ中」であり、他人は自分に奉仕するために存在していると思っているようで、特に弱者へ配慮する心と言うのは、まったく育っていない。注意されても、その意味さえ理解できないように見受けられる。
また、「ボクちゃん、凄いんダゾ」症候群に冒されているのも多くに共通する特徴である。何しろ大物であった初代や先代の話を、子供の時から何かにつけて聞かされてきたものだから、そのイメージが頭の中に定着してしまっている。そのため、自分の力量を勘案せず、ついつい背伸びして、「ぼくちゃんだっておじいちゃんのようにすごいんだぞ!」と力みかえる癖が見に染み付いてしまっている。なにか目立つことをやりたくてたまらなくなる。たとえば、戦後60年、誰も手をつけられなかった憲法9条を「ぼくちゃんが改訂してやる」なんてリキミもその一つの現れである。
ともあれ、科挙の試験(東大法学部入試)を通ってきたお公家と、この生まれながらの金持ち貴族の自然体で変身したお公家さんは、出てきたところが違うとはいえ、同じお公家として共通項をたくさん持ってるから、互いに連合して、やりたい放題やることになる。政官財、三位一体である。
◆「財務省の陰謀だ」という小見出しに目が止まった。読売新聞の12月22日付朝刊「総合面」(3面)である。「政権に痛手」と大きな横見出しが、事態の深刻さを知らせている。政府税制調査会の本間正明会長辞任の舞台裏から見た解説記事でもある。今回の本間会長辞任劇は、安倍政権の基盤がいかに脆弱(税弱でない)かを国民の目にさらけ出した。同時に、東大法学部の牙城である「財務省官僚群」が安倍政権を支持せず、反対に根底から脅かし、「意地悪」していることも白日の下に炙り出された。
◆慶応大学法学部出身の小泉前首相のときもそうであったが、成蹊大学法学部出身の安倍首相も、「東大閥」といっても、正確には「東大法学部閥」(同じ東大卒でも経済学部や文学部、教養学部などは、法学部から見れば亜流の雑魚にすぎない)が支持する対象ではない。逆に言えば、だからこそ、小泉前首相は、一橋大学卒の竹中平蔵前総務相やその師匠でもある大阪大学の本間正明会長など「亜流学者」を重用せざるを得なかったのである。
竹中前総務相は、アメリカの最大財閥・ロックフェラーの「本家」を名乗ってブッシュ政権を支えている「デイビッド・ロックフェラー」(シティグループ、エクソン・モービルのオーナー)の子分であるハーバート元大統領経済諮問委員会委員長に食い込み、その人脈を武器に小泉前首相の懐に飛び込んだ実に要領のいい人物である。
◆東大法学部閥にして見れば、国家最高指導者である首相が、「私学出」であることに、まず我慢がならない。それに加えて、旧帝大ではない一橋大学(前身は、東京商科大学)や大阪大学くんだりからやってきた「どこの馬の骨とも知れない胡散臭い御用学者」が、最高権力者の虎の威を借りて肩で風を切って闊歩する姿も許しがたいのである。
大企業にしても、大報道機関にしても、同じ仲間ではあっても、「東京閥」は、大阪や名古屋などから「上京」してきた者を排除したり、冷遇したりする傾向がある。「テリトリー」を「亜流」に侵されたくないという心理が働くのである。
本間会長も大変迂闊であった。まさに「敵陣」に乗り込むような立場であるはずだったのに無用心にも、敵生がわんさと住んでいる「国家公務員宿舎」をあてがわれて、「高級官僚」にでもなったように悦に入っていたのが、命取りとなった。「愛人問題」は、プライバシーに属する問題であり、別宅にでも囲っていればよかったのである。まだ、自らの止り木は、「貧家」を選ぶべきであった。
◆家柄がいいとか、育ちがいいからとか、父祖の恵沢を受けているからとか、はたまた大金持ちだからとか言うだけでは、政権を維持することはできない。安倍首相が、東大法学部閥から支持を得て安定政権を築くには、安倍首相自身が、東大法学部に学士入学して卒業し直すしかない。もう一度、平沢勝栄衆議院議員を家庭教師に雇い、モノサシで頭をコンコンと叩かれて、しごかれるしかなさそうである。さもなくば、学習塾経営者出身の下村博文官房副長官に泣きついて、「博文館」で猛勉強するもの妙案である。
http://www.asaho.com/jpn/coverright.html
一般に、外国の賓客が来学し、講演を行うときは、事前に教職員に対して参加を募る案内が届く。限られた範囲の人々を集めるような講演会でも、関連科目の担当教員には招待状が来る。学生の参加を募ることもある。しかし、今回は、講演会があることすら伏せられ、前日になっても公式ホームページに情報提供は一切ない。少なくとも私の所属する法学部の中国語関係の教員に対して講演会への参加案内はなかった。法学部がそうなのだから、全学的に中国関係の教員・研究者に参加を呼びかけるということはなされなかったとみてよい。全学に中国語を履修する学生はたくさんいるが、そういう学生たちに講演会への参加がアナウンスされることもなかった。大隈講堂に入れる早大生は、1998年11月の江沢民主席来学時のような、一般公募の学生たち(その個人情報の扱いをめぐって訴訟にまで発展したところの)ではなく、40人前後の「身元の確かな」中国留学経験者だけである。彼らには、事前に「政治的な質問はしないように」という趣旨のことが伝えられたようである。
そして、明日、大隈講堂の一階前よりの座席を埋め尽くすのは、胡錦濤主席と一緒に来日した中国共産主義青年団の精鋭200人とみられている。昨日、軽井沢で静養した彼らは、元気いっぱいで「警護任務」につく。胡錦濤氏はこの青年団の出身で、1984年にその第一書記(最高指導者)に登りつめた人物である。中国共産党のエリート養成機関であり、まさに彼らは胡錦濤氏の「親衛隊」といってよいだろう。この親衛隊があたかも学生の聴衆のように拍手を送る。明日の夕方のニュース映像には、早大生が拍手しているように映るのだろうが、中国製の「サクラ」である。
うお!楽しみになってきた!
/// とらえどころのない国家 95 /////////////
同じフィルター、とくに東京大学と、数は少ないが京都大学―つまり、両旧帝国大学の
法学部である。<システム>の上部では反目も大いにあるが、国の公的機関が産業側の
組織と闘うという事態は、めったに起こらない。企業人集団と官僚集団が組むと、
同じ業種の他の企業人集団と別の官僚集団が向こうにまわることがあり、この裂け目は、
先端のないピラミッドを斜めに走ることになる。これに対し、このような省庁間の激しい
対立や縄張り争いは大変意味深いものであるが、官僚と手ごわい企業との本格的な
対立というのは、めったに耳にしない(もし、そんなことがあれば、その後何年も
とりざたされることになる)。<システム>のずっと下位に位置する新興企業、とくに
重要産業分野の中小下請け企業においてのみ、本来の意味での企業家を見い出す
ことができる。
////////////////////////// 840円(税込) ///
ウォルフレンの功績の一つは、口当たりのよいイデオロギーによって糊塗された「現実」を暴露したことである。
「日本/権力構造の謎」では、日本は西側諸国の優等生として、アメリカ型資本主義と民主主義を実現したというこれまで信じられてきた神話を打破し、日本の権力システムは現実にはどう動いているかを示した。
もともとあの本は欧米の読者向けに書かれたものであり、あの本に書かれているようなことは日本で生活している人間にはわりと当たり前のことばかりであったはずだ。
それが日本国内で話題になって、うろたえたのは、これまで国内と国外でダブルスタンダードで接してきた「管理者」たちと、それまでまともな分析ができていなかった日本国内の学者、評論家たちである。
ウォルフレン氏は、ほとんどの日本人は近代国家の構成員である市民 (シチズン、フランス革命時のシトワイアン・シトワイエンヌ)としての役割をほぼ完全に放棄しており、この状態が日本人の「素顔」であり、うちひしがれた状態であると分析しています。
「市民とは政治的な主体」であり、また「つねに、社会における自分たちに運命について理解を深めようと努める」、「ときに不正に対して憤り(いきどおり)、自分でなんとかしたいと思い立って、社会問題にみずから深くかかわっていく」ものであり、「消極性は市民の立場(シチズンシップ)の死を意味する」と同氏は指摘しています。
(1)正確な情報が不足して、「うそ」(同氏は「偽りのリアリティー」と表現しています)がまかり通っていること、
(2)企業中心主義の横行
(4)国民のあきらめの心理
などです。
丸山真男のように今の政治体制をはっきりと批判する人も東大法学部卒だということだ。彼らを日本の管理者(アドミニストレータ??)のグループに入れることはできないが、こういった現象の研究者が言うように、東大法学部出という経歴のおかげで、彼らは安全地帯にいて大いに好きなことが言えるわけだ。
d:id:realiste=現代の丸山真男か。
「日本の高等教育は、東大、もっと具体的に言えば、その法学部を頂点とするヒエラルキーを形成する。東大ブランドが、どれほど尊重されるかは語りつくせない。過去一世紀に渡り、東大法学部は日本のトップ管理者のほとんどを、〔聖選〕してきた。その卒業証書は実質上、日本の支配階級へのパスポートである。官庁も大企業も就職試験は誰でも受けられることになっている。しかし実際には、慣例どおりの人数割り制に従って、新卒者が採用される。中堅企業は、東大法学部の卒業生を採用しようとは夢にも思わないであろうし、、また同じ意味で、中央大学の卒業生が経済界のトップにのし上がることは非常に少なく、政府の要職につくことはほぼ皆無であろう。(中略)日本人が永遠に〈システム〉の政治的監督下に置かれなければならない理論的必然性はなにもない。理想的には、どうすればよいのであろう?手始めに東大を廃校にする必要があるだろう。」