「明治時代」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 明治時代とは

2008-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20081208214137

そんなことしたら、江戸明治時代の比じゃないくらい「誰のおかげで食えてると思ってるんだ」「お前は黙って俺に従っていろ」(+暴力)なDV家庭が増えるに決まってるじゃないか。どこがどう効率的な役割分担なんだ。

2008-11-10

日本語は既にかなり滅びてますがなにか?

梅田もっちーダンコーガイ自己啓発(笑)の両巨頭が紹介した本には無批判に絶賛がつくといういつもの流れ。はてな村民がいかに自分の頭で考えない人間かよくわかるね。ちょっと前には、英語嫌いの益川先生が歴史に名を残す研究をしたという話が流れたばっかりなのに、すぐ忘れてしまってるんだから。

餅は餅屋という言葉を知らないか

ま、そんなことはともかくとして、言語学新書レベルに読みかじった経験があれば、この両氏の書評著者のインタビューを読んだだけで、モチヲや弾のお勧めを期待してこの本を読めば期待はずれに終わることがよくわかる。誤解なきよう、私は「日本語が亡びるとき」が面白くない本だとは思わない。何しろ相手は小説家、本当のことであろうが嘘のことであろうが面白く書いて読み手に深い印象を与えるプロなのだから、それは期待してもよい。ただし、著者に言語学バックグラウンドがない時点で、論としての面白さを期待するのは諦めるべきだ。SFとして面白いものが科学理論としてよくできているわけではないのと同様、純文学作家言語論に学術的レベルを期待するのは酷というものだ。もともとそういうものなのだから、モチヲや弾のようにあの本を絶賛する人というのは、アジテーターとしての自分を売り込みたいだけか、アフィリエイトで稼ぎたいだけか、あるいはまともな議論とトンデモの区別が付かない程度の知的素養しかないか、そのどれかだろうと思ってしまうのは私だけか(そういえば一部のはてな界隈で人気な「温暖化懐疑論」の論者に気象学者が一人もいないのはどういうことなんだろうね?)。

高校世界史を復習しろ

そもそも、著者が言うような意味日本語が亡びるというのが先走りにすぎるのは英語歴史自体が証明している。英語がどうして、同じゲルマン語のドイツ語よりも、ロマンス語フランス語に見た目が似ているかと気になったことはないだろうか。あれはノルマン・コンクエストの帰結である。英語は文化的外圧に曝されるどころか外敵に征服され、日本語と同じかそれ以上に外来語に「汚染」された言語なのだ。しかしその伝統からシェイクスピアをはじめとする華麗な英文学伝統が花開いた。

日本語も、実際に「地域語」であり、現代と比べものにならない外圧に曝された時代があった。飛鳥奈良時代や、明治維新期などはそれぞれ強大な帝国の圧倒的な文化力・軍事力の前に日本は存亡の危機に瀕していた。しかしそれらの時代に外の文化を大きく導入したことで、逆に日本語の文化は大きく栄えた。

単なる「国力」だけで、言語が「地域語」に堕し、その結果衰退するなどというのが俗論にすぎないことがよくわかるだろう。

日本語の最大の敵は「日本語

そもそも、「日本語が亡びる」という問題意識自体、日本列島言語を「日本語」という名で無自覚にひとくくりにしてしまうことの問題が現れている。アイヌ語琉球語を考えてみるがよい。これらを「方言」と呼ぶのは無理があるだろう。しかしながら「日本語」の隆盛のもと、これらの言語文化は危機に瀕している。

いや、言い直す。そもそも何を「方言」とよび何を「国語」「標準語」と呼ぶかは政治的な産物でしかない。ポルトガル語オランダ語は、かつてはスペイン語ドイツ語の一方言でしかなかった。デンマークでは読み書きができる知識人ドイツ語フランス語を使っていて、アンデルセンキルケゴールが現れる前の「デンマーク語」は「汚い方言」でしかなかった。

その意味で、日本の文化を見直してみるとよい。「遠野物語」のような地域の民話を語れるのは一部の語り部に過ぎないのではないか?いや、かつて日本の「中央」を荷った「上方文化」でさえ、衰退が甚だしい。関西弁ラジオテレビの成立以降、急速に流入した「標準語」の影響によって激しく変質し、江戸時代後期から明治時代にかけて成立した上方落語でさえ、若者子供のかなり多くはまともに聴き取りができない。上方落語日本言語文化の貴重な財産であることは誰も否定しまいが、これを日本人は自ら衰退に追い込んでいるのである。人間国宝米朝師匠事実上現役を退いた今、その前途ははなはだ暗い。

あるいは地域的な変化でなく時間的な変化を見てみるとよい。能は勿論、狂言歌舞伎でさえまともに聴き取れない日本人がどれほどいるか。源氏物語はおろか、明治期の擬古文でさえ現代語訳なしで読めない日本人がどれほどいるか。いやそればかりか、旧字体・旧仮名遣いの文章ですらろくに読めない人間とて決して珍しくあるまい。

このようなことになったのも、一つには近代化の推進のため我々が明治期と戦後に「国語」の成立と普及を強引に推進したせいだというと言い過ぎだろうか。世界に誇る日本文学などと言うが、我々が現代「日本語」を通じて享受できる文化遺産など、たかだか百年分ぐらいしかないのである。

守るべき「日本語」って何?

というか、元々これはそういうものなのである。「国語」という概念は「近代国家」が政治的に成立させるものだ。「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」という本があるが、これによると実際、江戸時代では各地の方言通訳する商売が成立していたという。あるいはフランスでは近代化以前、知識人はもっぱらラテン語で読み書きをしており、フランス語は単なる「俗ラテン語」のなれの果てでしかなかった。日本ではもっとひどく、仮名文字さえ実は統一されていなかった。変体仮名というのを聞いたことがあるだろうか。うなぎ屋の看板などで今もその名残を見ることができる。これらがきちんとした正書法と文法を揃えたのは疑いもなく時の権力政治的な措置なのだ。

それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れナショナリズム保守反動でしかないとさえ言えるのだ。


からかい半分で書き始めた文章につい力がこもってしまったが、いずれにせよ、「守るべき国語」というのはかくのごとく、大いなる虚構だ。関西人である私がこのように完璧な「標準語」で読み書きができるように、北欧あたりではテレビを通じて完璧英語を多くの人が身につけている。だがそれがいったいなんであろうか。言語の遣い手としては、一つの言語しか使えないよりも複数の言語が使えた方が楽しいに決まっている。考えてみれば、何の問題もないのではないか。

仮にそうした時代になろうとも、日本語でしか書けないような優れた文学作品があるのならば、日本語が読める人は必ずや読むであろう。日本語でなくても書けるものは、日本語で読む必要はない。そうなって困るのはいったい誰なのだろうか。「普遍語」を寡占してグローバリズム伝道を行うことで糧を得ていた人、昔日の栄光に浸る老人、それぐらいしか私には思いつかないのだが。

追記(ブコメ宛)

b:id:Nean えっと、だいたいの論旨に異議はないんだけれど、水村は「国語」が「虚構」ということを知った上で書いてるってのがいつの間にか飛んでるんでない? 「国力」の論点も変ですぜぃ。

水村は「国語」の虚構性を半分ぐらいしか理解していなかったと私は思います。たとえばここで挙げたような方言の視点はほとんどなかったのではないでしょうか。水村は東京生まれということなのでおそらく気づかなかったのでしょう。私のような方言話者にしてみれば「母語が『現地語』でしかない状況」なんて「なにをいまさら」でしかない、というのがこの記事を書いた大きな動機の一つでもあります。

「国力」についてはその辺の地方人バイアスが入っているかもしれませんが、正直あまり自覚はできていません。

2008-08-28

すとりーとびゅー

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0808/28/news032.html

プライバシーを言う人は若干自意識過剰ではないか。

『気持ち悪い』という意識は、明治時代に『写真を撮られると魂を抜かれる』と言っていたのと同じに聞こえる」と皮肉った。

GSVに言及してるいろんなところで、擁護派のこういった書き込みを見るんだが。

これを字義通りに解釈したら、ぐーぐるのやってることは、ものすごい暴力にならないか?

明治時代に『写真を撮られると魂を抜かれる』と本気で思っている人を「無理やり写真撮影してる」のと等しいのだから。

まぁ、この例えが秀逸なのは、写真を破棄しても『魂を抜かれた』(と思っている)ことを救済しないのと、画像を消してもすでに出回ったものを救済しないのが符合しちゃう点だな。

2008-08-05

http://anond.hatelabo.jp/20080805205247

今の出生率でも百年で消滅するなんてことないよ。あおりすぎ。

せいぜい明治時代くらいの数に戻るだけ。

支援されなきゃ生みたくないって奴はに無理して生んでもらわなくていい。

社会を消滅させたくないと思ってる人だけ子孫のこせば良い。

2008-07-16

http://anond.hatelabo.jp/20080715191525

ああ、恋愛なる思想犠牲者がここにも。

そもそも日本では歴史的には「恋愛」という概念自体がなくて、登場するのは明治時代欧米から輸入されて以後。当時は恋愛概念翻訳するのに作家の多くが苦労したという逸話も残ってるぐらいで。それ以前にも「恋」「愛」という言葉はあったのだけど、今とはずいぶん違った概念であったのだとか。

つまりは、所詮は恋愛思想概念の産物に過ぎず、誰もが生得的に持っている感覚とは言えない。現代日本にはそれなりに恋愛概念は定着はしているけど、それに違和感を持つ人がいても別に不思議じゃない。だから自らの立ち位置に疑問を持つ必要は別にない。ただ、恋愛概念になじめないのならそれに変わる思想か何かがあったほうがいいかもしれない。

詳しいことは恋愛概念について研究した本でも読んで考えて。こんなの↓とか。

http://book-sakura.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/2006_db64.html

2008-06-28

http://anond.hatelabo.jp/20080628090243

>東大理系ってそもそも凄いのか?

たいしたことないよ。

大学自体では多大と比較して突出した成果が出せているわけでもないし

東大理系 = 京大理系 > 東工大 > 東大法学

程度の感覚だよ。

日本を引っ張って来たのは大学と言うよりもメーカーだしね。

法学部微妙に感じるのは、東大の全学部の中でもっとも国際的評価も低いってとこかな

経済もさんざんだけど

まぁ、文理の違い自体は元々明治時代予算難の名残だからあんまり言っても仕方がないんだけどね

2008-06-09

秋葉原の事件で思ったこと。

最近日本はどこか狂ってきている」なんて、嘘だろ。

明治時代にだって江戸時代にだって、

気が狂って人を殺して回るような奴はいた。

現代との違いは、騒ぎ立てるメディアがあるかないか、それだけ。

今回の警察の対応は素晴らしかった。

現場に到着するのも早かったし、

下手に発砲なんかすれば一般人を傷つけかねない場所で

迅速に犯人を取り押さえたことは、賞賛されていいと思う。

日本の治安は死んでない。

この事件ひとつで、皆そんなに悲観的にならなくていいはず。

2008-05-26

処女じゃないと困るというのは明治時代から?

しょっしょっしょじょじ

しょーじょーじの庭は

つ つ 月夜だ

みーんな出て コイコイコイ!

2007-10-17

http://anond.hatelabo.jp/20071017105824

明治時代までは「ちょうふく」だけしか辞書には載ってなかったらしい。

以降、「じゅうふく」でも良いようになったとか。

間違う人が多かったんだね。

2007-09-22

http://anond.hatelabo.jp/20070922120950

著作権が無ければ面白いコンテンツ生産性はあがるのか?

著作権はあくまで権利の話しであって、世間で問題視されるのはあくまでその権利の行使のやりかた。

今のような方向性で権利が行使がされつづけると面白いコンテンツを生み出すそもそもの土壌がなくなる。

既存の作品というのは製作者の成長の過程において基礎となり重大な影響を与えている。

一切の模倣なしにコンテンツクリエイターが育つことは無い。

もし漫画家の卵が著作権の切れた漫画しか模倣できなかったら。

もしミュージシャンの卵がクラシックしか模倣できなかったら。

もし小説家の卵が明治時代に活躍した文豪の作品しか模倣できなかったら。

模倣という練習の先に独自のスタイルを織り交ぜるのであって、

それなしに著作者権利を行使したのでは、すべてのクリエイター車輪の再発明を強いることになる。

想像してみてほしい。

作者没後70年というのは、1937年昭和12年に死亡した人ということだ。

1937年に死亡した人達をみてみよう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/1937%E5%B9%B4

1870-1890に生まれた人達。彼らが作品を生み出したのが20、30台だとしよう。

1900年、時は明治33年。

もし、厳格に著作権が管理されたら、

ポケモンの歌をくちずさみながらピカチューの絵を描く子供達は、

著作物使用料を支払わなければならない。

文化祭学生が演奏を披露する子達はラベルボレロ以前の作品をコピーすることになる。

フェアユースが認められていない以上、インターネットは脱法状態だし、ポケットはてななんてもっての他。

そんな状態で生産性が問えるだろうか?

著作権は主に二つに分解することができる。

著作者人格権と、著作財産権だ。

誰がどのような作をなしたのかは厳格に保護される必要がある。

しかし、財産権を過剰に保護するのは大反対だ。

すべての作り手はマルパクリから第一歩を踏み出すのだ。

第一歩ぐらい最近のものから模倣したいじゃないか。

っていうか、そもそもプログラムには著作権認められないという。

どういうことやっちゅう話しじゃ。

プログラムにも人格権ぐらい認めろよ。

実行結果はほとんど同じでも書き方は千差万別。

もう、ほんとなんなんだよと思ってしまう。

2007-09-04

http://anond.hatelabo.jp/20070904103153

他人の愛人を下げ渡された(!)西郷隆盛後藤象二郎が「風呂にはいったら新品じゃ、がっはっはっ」と笑ってそれを受け入れた、という事例。

嘘か誠か、うろ覚えだが『龍馬が行く』で読んだ覚えがあります。

また、「新妻が処女じゃなくて困っております」みたいな悩み相談は明治時代新聞から既にあったらしい。これは井上ひさしか誰かの本で読んだ。

2007-08-27

http://anond.hatelabo.jp/20070827015357

でも、少なくとも東大は校舎はかなりぼろっちいよね?

なんか司法試験とかでエアコンもないような教室で試験している様とかみかけるけど、ちょっとどうなのさと思う。

でもないよ。外側は文化財で取り壊せなかったりするだけ(校舎によっては建て替えの予算はあるけど取り壊しの予算がなかったりするらしいけど)。中身はリフォームされててけっこう快適。暖房はちょっとききすぎるけど。あと地震が来ても全然揺れない。明治時代のひとたちすごすぎ。

2007-08-18

http://anond.hatelabo.jp/20070817224414

  • 今頃言文一致以前の人間を見かけるとは!珍しいもん見つけちゃった。メモメモ
  • 口語的表現ではあるが、口語的表現を口語臨場感を再現する意図でテキストに使うのに、なにか問題が?それこそ明治時代に通り過ぎた話じゃん?
  • その文脈の「のが」は、30代の俺の子供の頃には既にあったけどな。俺の生まれる前に書かれた小説にも用例はあるだろう。類似例に「のんが」ってもあるな。元増田がたまたま最近まで気がつかなかっただけだろ。
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん