はてなキーワード: ごろごろとは
親猫一匹、子猫二匹が座席にすわっていた。いや寝転んで爆睡中だった。子猫は親猫にかぶさるかんじで。
目をつぶったままごろごろ。みんな写真とりまくり。ストラップが当たるぐらい接近してとりまくっても寝たまんまだ。
おれは坐れなかった。ついでに携帯も忘れたのだ。
子供の頃、父親が土日に家で寝てばかりなのを見て、「休みの日なのに寝てるだけなんてもったいない! どこか遊びに行けばいいのに」と思っていた。
長じて自分が働くようになり、なぜ父親が休日ベッドで過ごしているのかようやく解った。
平日働き過ぎると、疲れて休みの日は起き上がれないんだな。
自分は新卒で入社四年目。それなりに責任も出てくるが、責任を完全に果たそうとすると120%くらいの力で働かなければいけない。そうすると、少なくとも土曜の午前中は起き上がれない。起き上がってもニコニコ動画観るとか、それくらいしかできない。お昼過ぎになってやっと回復し、それじゃあ、どこかに出かけようか、という気分になる。ごろごろしてるのは土曜の午前中だけで済むんだから、昔の父親ほどはまだ働いてないみたいだ。
この前彼女と会ったのも土曜の午前中だった。昼ごはんでも食べに行こうかということになった時、彼女が僕の顔を見て訊ねた。
「なんか疲れてる?」
例によって僕はまだ回復しきっていなかったので、こう答えた。「うん。正直、ダルい。テンション超低い」
すると、彼女は急に不機嫌になった。
「あたしは会う気満々で今日は来てるのに、そっちがそういう風にやる気ないのは、すごいくイヤ」
仕事で疲れてるんだよ! ……という言葉が出かかったが、ぐっと堪える。それを言ってしまったら、子供の頃、僕が散々バカにしていた「ダメな大人の男」とおなじじゃないか!
だから、「……ごめん。気をつける」と僕は言った。
それからちょっと考えた。
確かに仕事はやりがいがある。けれども、それはプライベートを犠牲にしてまでやり通すものなのだろうか? かつての父親も仕事のし過ぎということでよく母親とケンカをしていた。その後、彼は職を変え、自分のペースで仕事量をコントロールできるようになった。ちょうどその頃、僕も一人暮らしを始めたので詳細は分からないけれど、時々会って話すと、夫婦仲はとてもよくなったように見える。
人によって価値観は違うだろう。仕事とプライベートを両立できる人もいるのかもしれない。だけど、僕は今のところ両立できそうにないし、プライベートの方をより大切にしたい。
もちろん、仕事をサボるという意味ではない。やることはやる。ただ、土日もしっかり遊ぶためには、平日は80%くらいの力でなんとか乗り切りたいということなんだ。
会社に入社して寮に入って気になったことがある。
「あれ、私の隣の部屋の人まだ会社にいたのに部屋の電気ついてるや。消し忘れたんかな。」
最初はそう思っていたのだが、よく見ると毎日だ。
しかも、よくよく見ると、そんな人が周りにごろごろいる。
子供のころから、使わない電気機器はコンセントを抜け、とまで教えられてきた私は非常に違和感をいだいた。
「え、だって、帰ってきたときに真っ暗やったら寂しいやん。」
友達に不思議に思って聞いてみたら、そんな答えが返ってきた。
しかも結構まわりの同意を得ている。
そんな考えがあったのか・・・
「別に誰に迷惑をかけてるわけでもないからいいでしょ?電気代は寮費に含まれてるんやし。」
電気の無駄遣いはダメっていうのは、きっと普通の教育を受けてきたらどこかで誰かに教わるはずだ。
でも皆、その無駄遣いダメの理由が、お金がかかるからダメっていうふうにしか受け止めてないんだな、って思った。
なんか、地球とか環境とかって実は全然関係ないのかなぁ、私が間違ってるのかなぁ、って気がしてきたよ。
電気を節約したって、水みたいに貯めることはできないんだっけ?
なんかわからなくなってきた。
「よく分からないけど、誰もいないのに電気がつけっぱなしやったら、私は気持ち悪いよ。」
そういったら友達は笑って私の言うことを流した。
やっぱり私が間違ってるのかなぁ・・・
でも次の日帰ってきたら、友達の部屋の電気は消えていた。
嬉しかった。
http://shinrankai.hp.infoseek.co.jp/akehashi.html
この人、1万年堂出版から、「子育てハッピーアドバイス」とかを出している人だよね。
私は昔、書店関係の仕事をしていたんだけど、毎日同じ人が書店に来て、何十冊も1万年堂出版の本を買っていった。
こういうことは、宗教関係の本ではよくあること。幸福の科学とか創価学会でもやってる。
でも、異様だったのが、毎日坊主頭にした人が何人も書店に来てたこと。
みんな車輪が付いていてごろごろ転がすでっかいバックを持っていて、わき目も振らずにその中に大量に買った本を詰め込んでいた。
きっと、毎日沢山の書店を回って、どこでも同じように1万年堂出版の本を大量に買っているんだろう。
目つきも服装もなんか普通の人と違っていて、気味の悪い人たちだった。
この人たちが何なのか、親鸞会というカルト宗教の信者だと言うことがわかったのは後のこと。
1万年堂出版って、新興の出版社でありえない成功を収めたなんて話題になったんだけど、
親鸞会と言う宗教団体の信者の金で大量の本を買い支えていたことは関係者の常識だった。
今は、「子育てハッピーアドバイス」がベストセラーなんだよね。
きくところによると、この本は信者の買い支え無しでもそれなりに売れているらしい。
でも、以前坊主頭の集団が毎日書店にバックを引きずって、本を買っていたことを知っている俺にとっては、
親鸞会はなおさらだね。ネットを見るとひどい評判の悪い団体だと言うことがわかるし。
こんなのもみつけた。
こういうことを書くと「偉そうに」と怒られるのかもしれないけど、ある意味TB先と同じ話だと思うので書いてみる。
http://anond.hatelabo.jp/20070826235204
私は親には相当程度恵まれていたクチで、別に裕福ではなかったけれども教育費に事欠くようなことはなかったし、親の勧めで進学校に進み、世間的には一流と呼ばれる大学に進んだ。自分自身その当時の境遇には満足していたし、親も喜んでくれたし、ささやかな優越感を楽しむことも出来た。
大学は楽しかったが、私は特に大学の成績には興味が無かった。先輩の話を聞いていても、大学の成績が良かったからといって、それこそ総代にでもならない限りは大したメリットは無さそうだったし、なにより自分が興味をもてない科目をちゃんと勉強するほどの忍耐力は子供の頃から全く無い。自分の好きな科目だけはすべて優でそろえてそれで満足していた。
卒業して就職し、何年か経つと、周囲の友人たちの一部が留学を始めた。それまで自分が海外で暮らすとか、海外で勉強するなどということは想像の遥か外側にあったので、そういうことが可能なのかということ自体に結構驚いた。その当時はそれ以上考えが進むことは無かったのだが、仕事をしていくとその分野で日本が決定的に立ち遅れていることが見えてくる。これはちゃんと勉強しておかないと10年後に必ず行き詰るなと思ってアメリカ留学の準備を始めたのだが、ここで壁にぶち当たった。
アメリカの大学院はどこも学部時代の(場合によっては高校も含めて)成績を重視する。GPAで3.3(優と良が半々で少し良が多いくらい)は足切ラインであって、それ以下だと申込書を送ることすら出来ない場合もある。もちろん、実際に一流校で合格を決めるにはそれよりも遥かに高い、例えば3.9(ほとんど全部優)とかが求められる。GPAなんてものは存在も知らなかった私の成績は3.3を割り込んでいた。
もうひとつ重要なのが推薦状。アメリカの大学で博士号を取り、出来れば本人も世界的な業績をあげている人に推薦状を書いてもらうことが望ましい。残念ながらそんな人はほとんどうちの大学にはいなかった。というか、そういう先生がごろごろしているのは東大他数えるほどしかない。しかも推薦状は3通必要。私は推薦状のネームバリューを考えるどころか、3人の推薦人を揃えるだけでも精一杯だった。
それでもなんとかアプリケーションを書き上げ、会社に隠れてTOEFLの勉強をし(この時期の平均睡眠時間はちょっとやばいことになっていた)、会社に迷惑はかけられないので合否の結果が出る前に辞める宣言をして代わりの人材を自力で調達し、やることはやって合否の結果を待った。結果はほぼ全滅に近かった。中堅大にぎりぎり引っかかっていたのは運が良かったとしか言いようが無いが、その当時はその幸運に感謝する気にはなれなかった。
その後アメリカに行ってから、自分がアプリケーションを出した大学のうち結構な数が「世間的には難易度がそこまで高くないと思われているが、募集人数が少なかったりして実は非常に入りにくい大学」であったことを知った。比較的まともな大学で日本人を積極的に受け入れるところがあったこともその後知った。東大からハーバードみたいなところに進む連中は、学部生のうちから留学準備をしている先輩を毎年見ているわけで、この辺りの情報は常識であったらしい。まぁ、ハーバードだMITだのに進む学生はそもそも私などとは比べ物にならないほど優秀だったので、特に腹も立たなかったのだが。それでも、うちの大学でもGPA3.8位あれば学部によっては超一流大を狙えた事を知ったときは少し堪えた。
中堅大のハンディキャップは就職活動に現れる。ハーバード、MIT、スタンフォード、イェール、そしてプリンストン(分野によってトップ5の大学は変わってくるが)。これらの大学にやってくる求人広告とうちの大学に来るそれとはかなり明確に差が出てくる。イェールの友人にそれを愚痴ったら、「ハーバードとMITは特別扱いなんだ」と愚痴られた。
もし日本の大学に入った直後にこの辺りの事情を知っていたら、そして自分にもそういった「とんでもなくエリートっぽい」キャリアパスがあり得るのだと想像できていたら、自分の人生はもう少し楽になっていたと思う。情報なら幾らでもあった。世の中には留学ガイドがあふれていたし、掲示板にだって色々なことが書いてあった(その頃はまだインターネットは無かったわけだが)。本屋でちょっと手に取っていれば必要な情報の半分くらいは入手できただろう。でもそうしなかった。そんなこと想像も出来なかったのだからしょうがない。親も友人も、海外にまで出て行く人間などいなかった。就職先で留学する人間に出会わなければ、今でも想像できないだろう。
結局、人間は社会に縛られる。それはしょうがない。誰かが悪意を持って情報を隠しているわけでもない。多分こちらから聞きに行けば喜んで教えてくれただろう。でも私はそうしなかった。想像力が足りなかった。想像力が足りない自分が「悪い」わけじゃない。ただ運が悪かっただけだ。それでも、そういう運の良し悪しも含めて自分の人生なわけで、それを嘆いても始まらない。架空の「すべてをコントロールするエリート」をでっち上げて彼らのせいにしたって虚しいだけだ。
結局私は海外で就職して必死に働いている。多分また無意識のうちに別の「社会」に縛られているのだと思う。もう少し世の中が見える人からは遠回りしているように見えるのかもしれない。でも自分に出来るのは手持ちの知識と能力と時間のなかでベストな選択をすることだけ。今の自分に満足できないからって「格差社会が悪い」と大上段の議論をするより、自分の手持ちの駒の使い方を考えたほうがいい。
『「丸山眞男」をひっぱたきたい』を読んで啄木『時代閉塞の現状』を想起した。
改変ネタ投下にはやや旬を過ぎたか。
時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったと嘆いている。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口(ほうしょくぐち)の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何千という国公私大学卒業生が、その半分は職を得かねて親元にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何倍、何十倍する多数の青年は、その正規雇用を享(う)ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の雇用はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三百万円以上の年収を得ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「ニート」という不思議な階級が漸次(ぜんじ)その数を増しつつある。今やどんな僻村(へきそん)へ行っても三人か五人の大学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととインターネットで騒ぐことだけである。
我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々(すみずみ)まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥(けっかん)の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉(ききん)とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに希望をも失ったワーキングプアとホームレスとの急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦(わがくに)において、その法律の規定している年金受給者の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において延長せねばならなくなっている事実(少子高齢化の事実、東京並びに各都市における無数の未納者が納付する金がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。
かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪(た)えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(既存市場の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。同人のマンガやアニメやゲームのほとんどすべてが戦闘、暴行、ないし虐待、姦通の記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは市場によって黙認、もしくはなかば黙認されているところではないか。
そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。 戦前に対する回顧(かいこ)がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇(そうぐう)した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾(いかん)なくその美しさを発揮しているかを。
かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞(へいそく)の現状に宣戦しなければならぬ。虚無主義を捨て、盲目的反抗と戦前の回顧とを罷(や)めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注(けいちゅう)しなければならぬのである。
1文字5円、卒論に代行業者…大学は「見つけたら除籍」 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
卒論作成サービスが話題になっていたな。半数が法学関係だって。
あんまりそれ聞いてびっくりしなかったな。
理系だと実験やらなんやらで具体的な数値とかが要るのだろうが、
文系、特に法学系は雑誌などで学者のえらいさんに論述されている場合が多いので、
学士論文で別に書くことなくね?というあきらめに近い感情と戦わなければいけない。
ただ、適当に書こうと思えば書けないことはないと思うから、外注に抵抗感はなさそうだな。
さすがに根拠となる法律やら学説やらを引っ張り出さなくちゃいけないけど
ネット上に参考資料はごろごろあるので理系や、ほかの文系より書きやすいと思うよ。
論文がごろごろありすぎて「他人の論文をコピペすんじゃねーよ」と突っ込まれることもないし。
参考資料として使えばコピペしてもとがめられなかったよ。
うちの大学に限ってかもしれないが、指導教授は大学院に行く人間には熱心に論文指導していたけど、
普通の学部生は「まあ4年は公務員試験や教員採用試験、就職活動に頑張んなさい」ってな感じで
それにうちの大学は卒論が卒業条件じゃぁなかったので卒論のないゼミもあったし、
ゼミに入っていない人は卒論を多分書いていないんじゃないかな?
ちなみに自分は(さすがに半年前から資料は集めていたが)丸1日で卒論を書き上げた。
内容は・・・卒論というか、普通のレポート以下じゃね?って感じだったような。
指導教授はろくに内容も読まず、「書いただけでもいいや」と「優」をくれた。
愛してる。 ものすごく愛してる。 絶対絶対誰にも負けないほど愛してる。 寝顔が愛しく感じる。 存在が愛しく感じる。 毎日毎日愛を囁きあえる。 愛されていると実感できる。 この世で一番愛されていると実感できる。 この先も一番愛されていくと実感できる。 会社で飲みに行くとか、男友達と会うとか、どんなことがあっても微塵の疑いを持たない。 だって彼女が一番愛してるのは僕なんだもの。 だって彼女が一番大事にしているのは僕なんだもの。 そんなの全部自明じゃないか。 料理は一緒に作れば良い。 知らなければ僕が教えるよ。 下手だけど食べるのに支障はない。一緒に勉強しよう! 僕は勉強が大好きだし、君も頑張りやさんだ。 二人で夢を語り合おう。 二人で経験を共有しよう。 二人で冒険してみよう。 二人で何をするか決めよう。 二人でぐっすり寝て疲れを癒そう。 二人でごろごろして幸せを噛みしめよう。 君が病気の時心配だよ。 僕に出来ることは何でもするよ。それでずっと手を握るよ。 僕が病気の時、君はいつでも僕と一緒にいてくれるね。 何かあれば話せば良い。どれだけ時間をかけても話せば良い。 行き詰ったら少し一緒に外を歩いてお気に入りの喫茶店にでも行こうか。それともちょっとケーキでも焼こうか。 そういえば今日友達から中国茶をもらったんだ。 花の形で、湯飲みの中で花が咲くようにゆっくりと開くんだ。 それをじっとみつめてみよう。