『「丸山眞男」をひっぱたきたい』を読んで啄木『時代閉塞の現状』を想起した。
改変ネタ投下にはやや旬を過ぎたか。
時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったと嘆いている。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口(ほうしょくぐち)の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何千という国公私大学卒業生が、その半分は職を得かねて親元にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何倍、何十倍する多数の青年は、その正規雇用を享(う)ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の雇用はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三百万円以上の年収を得ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「ニート」という不思議な階級が漸次(ぜんじ)その数を増しつつある。今やどんな僻村(へきそん)へ行っても三人か五人の大学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととインターネットで騒ぐことだけである。
我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々(すみずみ)まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥(けっかん)の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉(ききん)とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに希望をも失ったワーキングプアとホームレスとの急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦(わがくに)において、その法律の規定している年金受給者の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において延長せねばならなくなっている事実(少子高齢化の事実、東京並びに各都市における無数の未納者が納付する金がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。
かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪(た)えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(既存市場の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。同人のマンガやアニメやゲームのほとんどすべてが戦闘、暴行、ないし虐待、姦通の記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは市場によって黙認、もしくはなかば黙認されているところではないか。
そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。 戦前に対する回顧(かいこ)がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇(そうぐう)した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾(いかん)なくその美しさを発揮しているかを。
かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞(へいそく)の現状に宣戦しなければならぬ。虚無主義を捨て、盲目的反抗と戦前の回顧とを罷(や)めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注(けいちゅう)しなければならぬのである。