はてなキーワード: 乾杯とは
ありがと。ちょっと忘れられそう。乾杯。
歓迎会、送別会なんかは礼儀かな、と思ってます。参加しない人もいますが、それは個人の自由。
歓迎会は入ってきた人に、うちへようこそ、仲良くやっていきましょうね、という意味が含まれていると思う。本人が拒否するならさすがにできないけど、逆に歓迎会ないと、入ってくるひとは「歓迎されないのかな」と不安に思うんじゃなかろうか。
送別会は、この職場でのお仕事お疲れ様でした、次の職場でも頑張ってください、という意味。一緒に仕事をしてきた人だし、いなくなるとさびしいし、きちんと送り出すのは礼儀だと思います。うちの職場でも参加しない人はしないけど、それは自由。でも別に参加しない人を責めたりはしない。
自分アルコール弱いので乾杯以外はソフトドリンクなんだけど、別にアルハラとかないです。なんだろう、職場に恵まれているのかな。
http://anond.hatelabo.jp/20070415052118
酒に弱い人は、別に一滴も飲まなくったっていいんです。まあ乾杯の一杯くらいは口を付けた方がいいでしょうが。
大事なのは酒が飲めるか飲めないかではなく、場の雰囲気を大事にするかしないかなのです。
飲み会の場合は場の雰囲気が「飲めるべき」という場合がほとんどじゃないか?
飲まなくていいならわざわざ飲み会なんかせず日常業務の中で意思疎通すればいいだけだし。
いくら誘ったって飲み会にも来ない人は、そもそも普通の人じゃないんですよ。普通じゃない人です。
だいたいそういう人は、飲み会に来た所で、つまらなそうに一人ぽつんと俯いているだけなんです。
最悪ですね。場の雰囲気というものが何であるのか全く解っていないんでしょうね。飲み会ぶち壊しです。
こういう人を見かけたら、皆で即座に尻を蹴っ飛ばして追い出したいくらいです。
まあそうなるのが分かっているから、きっと来ないんでしょう。でもね、それじゃ社会人として失格なんですよ。
職場の仲間同士の飲み会が開かれるのなら、義務として参加しなければいけません。社会人の義務ですね。
これに参加しないなんてまずあり得ません。飲み会は業務の範囲内にあるのです。限りなく業務外に近い業務であるのです。
飲み会を通じて、職場での相互の円滑な関係を構築し維持することが出来るのです。まさに潤滑油と言えましょう。
参加しない人間がいれば、つまりそれは立派な業務怠慢です。将来のリストラの筆頭候補でしょうね。
そして参加したとしても、隅っこで一人石像のように座っているような空気が読めない人間もまた立派な業務怠慢です。
酒に弱い人は、別に一滴も飲まなくったっていいんです。まあ乾杯の一杯くらいは口を付けた方がいいでしょうが。
酒に弱いのを知っていながら酒を強要する人は犯罪者ですから、相手にする必要はありません。
大事なのは酒が飲めるか飲めないかではなく、場の雰囲気を大事にするかしないかなのです。
社会人ならば、場の雰囲気を感じ取りその中で自分がいかに行動すべきかを考えられるようにならなければなりません。
これは何も飲み会のみに限られたことではありません。職場ではもちろん、個人の生活上のありとあらゆる活動に及ぶのです。
飲み会にすら来ない人、飲み会で浮くような人などは、飲み会以外においてもパッとしない人間がほとんどでしょうね。
飲み会に対する臨み方で、その人個人の社会人としての能力が分かってしまうのです。
飲み会と上手く付き合えない人を見たら、まず出世しない人だと思いましょう。
だいたいそういう人は決まって「飲み会の雰囲気が嫌い」だと言います。本当にそうなのでしょうか。
彼らが本当に嫌いなのは、飲み会で上手く立ち回れない彼ら自身なのです。
飲み会に毎回参加するような人に、飲み会の雰囲気が嫌いなどと言う人はいません。
彼らは彼ら自身の能力が足りないことを、飲み会の雰囲気に転嫁しているのです。そうしてそれに気付かないふりをしている。
全く愚かなことです。彼らが自身の能力の無さに気付き、それを伸ばすよう努力することを望みます。
そうすれば、彼らも飲み会が嫌いなどと思うことはなくなるでしょう。
某所で闇に葬った話を匿名をいいことに書いてみる。
向精神薬と酒。
向精神薬ってのは要するにハルシオンとかに代表されるいわゆる睡眠薬とか、
厳密にはまた違うんだが一応ここでは気にしない。
基本的に、向精神薬はどれも酒と相性が悪い。
薬の効きが強くなりすぎたりして危険だと言われている。
じゃあ統合失調症・睡眠障害持ちの僕は酒が飲めないのか、といえば
教科書的にはその通りであり、宴会の席での乾杯も控えるべきである、となる。
が、現実問題そう簡単にいくかといえば…そうでもない。
仕事の席での乾杯を避けるのは難しい (場合によっては失礼にすらなりうる)。
また、これは言い訳かもしれないが、旅行先などでの地酒摂取など、
アルコールを「常用」はしないが、「稀に」摂取したくなる時はある。
という話を精神科医にしたところ (同じ医師から既に一応酒は止められている)、
…自分しか考えられない。いわゆる「自己責任」。
「酒飲んでいいと医者が言ったから (略)」で飲んでしまって
思わぬ薬の作用で大変なことになったりした場合、
リスクを伴う行動は取らせない、安全側に倒すのはやむを得ない。
その結果出てきた言葉が「医師として責任は取れない」だったのだろう。
あとは自己責任の範囲で何をするか。
人によって答えは変わるだろうが、僕は僕なりの答えを出すことにする。
http://anond.hatelabo.jp/20070126012513
同じようなやつ知ってる。創立記念日じゃなくて別の記念日だけど、
そいつ、毎回、会のある少し前から
「今日は僕の誕生日にこんな盛大な会を開いて頂いてありがとうございます」っておおげさに
ふれ回るもんだから、3年目くらいに連絡票に「記念日と●●君誕生祝いについて」って
書かれるようになって、5年目か6年目からは記念日の話がほとんどなくなっちゃった。
部長のあいさつより、そいつの乾杯の音頭の方が長いんだ、もう。
少なくともその会社にとって、その記念日の扱いってのはその程度のものだった、と同時に、
連呼ってのは影響力があるんだなと思った。
参考にはならないよな、たぶん。
久々に興味ある話題なので転載してまとめるよ。
巷で蔓延するニセ科学批判。多くの人間の共感を呼んでいるが、実は問題はそう簡単なことではない。
確かに、追試により証左を求めることが出来ない科学は全て『ニセ科学』だ!
と、定義できればこれほど簡単なことはない。
実際、そのような定義が正しいとは思う。
しかし、科学者自身がニセ科学を批判するには人類が築き上げてきた科学は脆弱すぎる。
科学がニセ科学を糾弾できない真の理由はを知るには『進化論』問題を見れば解るだろう。
なぜ進化論がニセ科学かは、具体的に事例を出してゆ行けば自ずと結論がでるのだが、これは実に根が深い問題である。
人と猿は近い種と考えられているが子供を作ることは出来ない。そこには明確な断絶があり、どのような手段で『進化』がこの壁を乗り越えることが出来たかは今だ明確な説明できない
猪から豚が、狼から多種多様な犬が生まれたからといって、進化はあると言うのは紛れも無いニセ科学的な論法である。事、人間に関してはミッシングリンクなどと言う名称までつけて事の解決を図ろうとしているが、これは現在は実証しようがないと認めているに等しい行為である。
進化論をやっかいなニセ科学にしている理由に多種多様な化石の存在がある。
そして、始祖鳥を筆頭に恐竜から鳥が、魚から両生類が、両生類から爬虫類が…と言うように進化したと言われている。しかし、これを証明できるほど遺伝子工学は進歩していないし、結論は別のものであると考えたほうが遥かに健全であろう。今の段階でこの希望的観測を学校の授業に取り入れるのは間違いである。
クローン猫の事例を出せば納得してもらえるだろうか。
恐らく多くの人間は遺伝子が同一なクローンはオリジナルに極めて近い性質であると考えたであろう。
私もそう予測した。
しかし、実際は違った。模様から性格に至るまでそれは明確に別の固体のように振る舞い、一卵性双生児のように極めて近い存在とはならなかった。しかし、同じ遺伝子であることに間違いは無い。細胞の寿命に関する機能が原因ではないかとも言われているが、多くの遺伝学者、識者が予想もしなかった結論がでた。
つまり、当時のクローン技術で予測された結果は正しくはなかったと言うことだ。
科学とは証左できない存在を排除するプロセスを経て初めて機能する具体的事例をここに出した。
しかし進化論では、状況証拠から結論を予測するしか出来ない。これは間違いを必然的に孕む手法であり、何より間違いを正す手段が無い。
更に言えば、進化論を形作る多数の証拠には扱いに困る物も多い。
例えば、中国政府が北京原人は実在すると主張し続ければ北京原人は存在することになる。(証拠が既に紛失してしまったので検証しようがない)
◆進化論の背景
現在、進化論のような理論が提唱されても学会で否定されるであろう。
このような証左を求めることが出来ない存在は現在の科学では入り込む余地がない。
しかし、これは当時の時代背景を考慮に入れなければ説明できない問題である。
実は科学とはアインシュタインの相対性理論をターニングポイントにその性質がガラリと変わっている。
それまでは、科学には無限の可能性があり、明らかに出来ない事象は存在しないと信じられてきた。
しかし、このドイツ出身の物理学者が提唱した相対性理論によって、そのことが明確に否定されてしまったのだ。ビックバンと呼ばれる宇宙開闢以前の時間が存在しない『モノ』の考証を物理学は放棄した。
これは、当時の科学者には相当な衝撃であり、決して受け入れられないと考えた学者も多かった。
しかし、誰一人、論理的にそれに対抗できる概念を作り出すことが出来なかった。
(その残滓がタキオンやエーテルと言えば理解できるだろうか?)
さて、話は戻るが進化論はアインシュタインの相対性理論発表前にダーウィンが提唱した論文が発端になっている。科学が万能であると信じられた時代の遺物。まだ、科学が錬金術と近い間柄だった時代に生まれた存在である。
はっきり言ってしまえば、進化論とはアインシュタインが科学の万能性を否定する以前の学会だからこそ認められた存在であり、これは科学というより歴史学といったほうが良い代物である。
◆本文を書こうと思った背景
ちょうど大阪大学の菊池誠教授の『水からの伝言』でニセ科学が話題になっていたので常々思っていたことを文章にしてみようかと。それまでは、非常にナイーブな問題で、米国のほうではインテリジェント・デザインとかいう物まで生まれてしまうほど議論にさえならない状態だったこの問題に区切りをつけて、科学とニセ科学を明確に分けたい!という衝動から書かれた文章。
伝えたいことは進化論の科学的な証明プロセスはありえない存在であり、進化論を科学と扱うことを否定して貰えればそれでいい。
進化論が流行らせた最大の間違いは何か?と聞かれれば私は獲得形質を挙げる。
既に遺伝学的に否定された獲得形質ではあるが、
この考えが根本となり、ナチスの優生論が生まれ、多くの人間が犠牲となった。
淘汰は自然には起こらず明確な人の意志によって行われたのだ。
(追記)
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20061226222936
実はこの手の話は感情的になる人間が必ずいる。しかし、大事なことは追試をどう行えば進化論が肯定・否定されるかを彼らが提示することはないという事実だ。
私は進化論が間違いだと言っているわけではない。そもそも進化論は否定する必要さえない段階の説なのだと言っているのだ。
タイトルが釣り過ぎという指摘はその通りでございます。賢い貴方に乾杯。
07:41:09-12/27(水)/2006
インテリデザインという不正確な表記をインテリジェント・デザインに訂正
14:11:45-12/27(水)/2006
【A】に対して。
科学の中でも追試が行われ易い分野とそう出ない分野がある。これは、時間スケールが関係しているよ。長い時間をかけて出来るような、天文学や進化の関連では検証が簡単ではないものが多いです。
でも、進化でも検証されてきてる分野はでてきてる。たとえば、大腸菌を使った進化を検証したものでしょう。だから、まったく、追試が出来ないかと言えばそうではない部分も持ち合わせているようです。それ以外にも社会性の昆虫の分野の性比の問題なども進化的な検証から成果を上げていますよ。パルサー天体のようなものもあるくらいだから恐らく、天文も同じでしょう。また、検証が難しくとも現存するデータで理論が正しいかどうかを確かめる為に統計学を利用しているが、20世紀半ばの集団遺伝学を引っ張ったフィッシャーのように統計学へかなり影響を与えたような事も産まれている。
科学ってものは未解決なものをといていく事で知見が深まっていく。未解決な例を上げて、否定する論法は偽科学と科学の関連でよく使われてるが、それでは説得力が乏しい。たとえば、進化が関連しそうな未解決なものを進化的な方法を取り入れずに解けたならそれは一つの有力な考え方になるだろうし、進化を否定する事につながるかもしれない。要するに、他の方法で未解決なものを説明する試みをしてみないと行けないです。もちろん、インテリジェントデザインのように、超自然的な存在がそうしたのだ。と一言で言われたら、変わりの未解決問題の解決説なのかもしれないが、ここで大きな問題は、超自然的な存在を持ち出す事によって、ブラックボックスを常に作ってしまう事にある。
このブラックボックスってのは、何か都合が悪い事があれば、超自然的な存在の影響だと言う捉え方も可能だし、逆に良い事があってもです。そうする事によって、それ以上の知見を求めない事に問題があると考えていますね。もし、超自然的な存在がいたとしたら、知見を深める事をタブーとはしないと思うけど。倫理的な問題はちょっと別だが。思考を止めて盲目的に信じる事がどのような事に通じるかそれは書かなくてもわかる人が多いだろう。
ただ、偽科学と科学の間にある対立で残念なのは、相互理解が全くないところにある。偽科学だと言われてるものたちが科学(=科学的手法)に対して誤解があるし、科学者が偽科学に対して攻撃的なだけのことも多い。科学じゃないけど、感情的な理解を少しはしていかないと理解はされない。情緒と論理の間の対立のようなものだ。ただし、科学への誤解が解ければ、おそらくニセ科学の多くは科学の顔をしないようになるだろう。
【A】に対して。
そもそも一卵性双生児の性格がまったく一緒かというと、そんなことはないわけで、つまり性格は遺伝要因と環境要因のうち後者の影響が大きいと考えられます(通常は似たような環境で育つので近いものになるとは思いますが)。昔の人はいいことを言った。「生みの親より育ての親」
模様については以下を参照のこと
http://plaza.rakuten.co.jp/kemusiro/diary/200608170000/
素人考えで性格も模様も一緒になるはずと考えるのは勝手ですが、みんなもそう思ってたと考えるのはどうかと思います。どちらも知識さえあれば事前に予測できたことです。昔の人はいいことを言った。「下手の考え休むに似たり」
以下蛇足。
この手の文章を読むと、だいたいどういう方面の人かというのが分かるのだけど(インテリジェントデザインがキリスト教右派の主張の焼き直しにしか過ぎないことがバレバレなように)、この文章はどうも分からない。分からない原因は対立概念が書いてないからだと思うのだけど、「進化論」がニセ科学だとするならば、人間その他の生物はどのようにして発生したと考えているのでしょうか。そこを詳しくききたい。
俺にとって「反証可能であるか」「追試可能であるか」どうかなどどうでもよく、
血液型性格判断も、マイナスイオンも、ゲルマニウムも、水への言葉も
「ナゼ」「どのような仕組みで」と言う部分をすっとばしているから「科学ではない」ではない。と言いたい。
「理由はよく分らないのですが、こうするとこうなります」
ではただの経験則であって、万人に通用するかは分らない。
「B型は身勝手だから」「マイナスイオンは体にいいから」「水が人の心(の波動)を受けるから」
全て「どのような仕組みで」をすっ飛ばしている。
だから『科学ではない』これではいかんのか。
ひとつの理由。
偽者と本物が同じ土俵に立つわけにはいかない。
同じ土俵に立って戦えばピエロになるだけ。
科学とはできないを突き詰めるもの。
可能性を夢想するものではない。
科学は万能などではない。
我々にはできないことの方が多すぎる。
だから前提条件が必要なのだ。
空を飛ぶ為には人間が両手を広げてブーンと言うだけでは飛べない。
これは前提条件だ。
「人間が飛べない」というものを証明したものではない。
同じ論点で、宇宙人がいないと断言するのは間違っている。
「宇宙人は少なくとも確認されていない。」
科学からすれば、それ以上でも以下でもない。
それを「居る」と断じる人たちと戦おうとするのが間違っているのだ。
「居る」「居ない」で戦おうとする人たちに
「いまは確認されていないのでは?」と問う声は届かない。
すべてはおまじない程度の可能性。
すべての可能性は否定はしない。
テレビが映るのを不思議と思わないのに幽霊を見るのは特殊な才能だと思っている。
そんなアンテナ感度の違う人たちと同じ土俵で戦えるわけがない。
仮説にもなっていない言説ということなんでしょうか?
かせつ 0 【仮説】
〔hypothesis〕ある現象を理論的に統一して説明するために立てられた経験科学上の仮定。その真偽の検証は、仮説から必然的に演繹(えんえき)された諸命題を実験や観察によるテストで確かめることによってなされる。検証された仮説は法則や理論として公認される。
巷で蔓延するニセ科学批判。多くの人間の共感を呼んでいるが、実は問題はそう簡単なことではない。
確かに、追試により証左を求めることが出来ない科学は全て『ニセ科学』だ!
と、定義できればこれほど簡単なことはない。
実際、そのような定義が正しいとは思う。
しかし、科学者自身がニセ科学を批判するには人類が築き上げてきた科学は脆弱すぎる。
科学がニセ科学を糾弾できない真の理由はを知るには『進化論』問題を見れば解るだろう。
なぜ進化論がニセ科学かは、具体的に事例を出してゆ行けば自ずと結論がでるのだが、これは実に根が深い問題である。
人と猿は近い種と考えられているが子供を作ることは出来ない。そこには明確な断絶があり、どのような手段で『進化』がこの壁を乗り越えることが出来たかは今だ明確な説明できない
猪から豚が、狼から多種多様な犬が生まれたからといって、進化はあると言うのは紛れも無いニセ科学的な論法である。事、人間に関してはミッシングリンクなどと言う名称までつけて事の解決を図ろうとしているが、これは現在は実証しようがないと認めているに等しい行為である。
進化論をやっかいなニセ科学にしている理由に多種多様な化石の存在がある。
そして、始祖鳥を筆頭に恐竜から鳥が、魚から両生類が、両生類から爬虫類が…と言うように進化したと言われている。しかし、これを証明できるほど遺伝子工学は進歩していないし、結論は別のものであると考えたほうが遥かに健全であろう。今の段階でこの希望的観測を学校の授業に取り入れるのは間違いである。
クローン猫の事例を出せば納得してもらえるだろうか。
恐らく多くの人間は遺伝子が同一なクローンはオリジナルに極めて近い性質であると考えたであろう。
私もそう予測した。
しかし、実際は違った。模様から性格に至るまでそれは明確に別の固体のように振る舞い、一卵性双生児のように極めて近い存在とはならなかった。しかし、同じ遺伝子であることに間違いは無い。細胞の寿命に関する機能が原因ではないかとも言われているが、多くの遺伝学者、識者が予想もしなかった結論がでた。
つまり、当時のクローン技術で予測された結果は正しくはなかったと言うことだ。
科学とは証左できない存在を排除するプロセスを経て初めて機能する具体的事例をここに出した。
しかし進化論では、状況証拠から結論を予測するしか出来ない。これは間違いを必然的に孕む手法であり、何より間違いを正す手段が無い。
更に言えば、進化論を形作る多数の証拠には扱いに困る物も多い。
例えば、中国政府が北京原人は実在すると主張し続ければ北京原人は存在することになる。(証拠が既に紛失してしまったので検証しようがない)
現在、進化論のような理論が提唱されても学会で否定されるであろう。
このような証左を求めることが出来ない存在は現在の科学では入り込む余地がない。
しかし、これは当時の時代背景を考慮に入れなければ説明できない問題である。
実は科学とはアインシュタインの相対性理論をターニングポイントにその性質がガラリと変わっている。
それまでは、科学には無限の可能性があり、明らかに出来ない事象は存在しないと信じられてきた。
しかし、このドイツ出身の物理学者が提唱した相対性理論によって、そのことが明確に否定されてしまったのだ。ビックバンと呼ばれる宇宙開闢以前の時間が存在しない『モノ』の考証を物理学は放棄した。
これは、当時の科学者には相当な衝撃であり、決して受け入れられないと考えた学者も多かった。
しかし、誰一人、論理的にそれに対抗できる概念を作り出すことが出来なかった。
(その残滓がタキオンやエーテルと言えば理解できるだろうか?)
さて、話は戻るが進化論はアインシュタインの相対性理論発表前にダーウィンが提唱した論文が発端になっている。科学が万能であると信じられた時代の遺物。まだ、科学が錬金術と近い間柄だった時代に生まれた存在である。
はっきり言ってしまえば、進化論とはアインシュタインが科学の万能性を否定する以前の学会だからこそ認められた存在であり、これは科学というより歴史学といったほうが良い代物である。
ちょうど大阪大学の菊池誠教授の『水からの伝言』でニセ科学が話題になっていたので常々思っていたことを文章にしてみようかと。それまでは、非常にナイーブな問題で、米国のほうではインテリジェント・デザインとかいう物まで生まれてしまうほど議論にさえならない状態だったこの問題に区切りをつけて、科学とニセ科学を明確に分けたい!という衝動から書かれた文章。
伝えたいことは進化論の科学的な証明プロセスはありえない存在であり、進化論を科学と扱うことを否定して貰えればそれでいい。
進化論が流行らせた最大の間違いは何か?と聞かれれば私は獲得形質を挙げる。
既に遺伝学的に否定された獲得形質ではあるが、
この考えが根本となり、ナチスの優生論が生まれ、多くの人間が犠牲となった。
淘汰は自然には起こらず明確な人の意志によって行われたのだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20061226222936
実はこの手の話は感情的になる人間が必ずいる。しかし、大事なことは追試をどう行えば進化論が肯定・否定されるかを彼らが提示することはないという事実だ。
私は進化論が間違いだと言っているわけではない。そもそも進化論は否定する必要さえない段階の説なのだと言っているのだ。
タイトルが釣り過ぎという指摘はその通りでございます。賢い貴方に乾杯。
(続・科学が『ニセ科学』を糾弾できない本当の理由 - はてな匿名ダイアリーに続く)
07:41:09-12/27(水)/2006
インテリデザインという不正確な表記をインテリジェント・デザインに訂正
14:11:45-12/27(水)/2006
15:05:07-12/28(木)/2006
続編リンク追加
A「オシ!今日も飲むぞ!!」
B「まじで!?昨日も飲んだじゃん?しかも再提出のレポあるし、明日締め切りの実験レポートもあるじゃん。流石にきつくない??」
A「何とかなるって!今日は飲まないと!!」
B「何でそんな飲みたいのさ?」
B「あ、知らなかった…。」
A「そっか。まあ俺も今日知った身なんだけどさ(笑)。あいつも最近色々あって落ち込んでるみたいだしさ。ここらで一発飲んで元気付けようかなと。どうよ??」
B「……わかったわ。Aがそこまで言うなら仕方がないな。だけど、単位落としたら一生Aの事恨むからな!(笑)」
A「それは勘弁!!じゃあちょっと他にもアポとってくるわ。ちょっと待ってな。」
そういってAは携帯電話を片手に大学の食堂から出た。Aはとてもいい奴だ。学科の中でも一番人気がある男だと思う。男からも、女からもだ。誰かの誕生日、誰かが振られた、誰かが退学しそう…誰かが何かあって困っている時、彼は必ずそこにいて、何か手助けしてくれる。ただ、手助けといっても必ずしも何かするわけではない。心理的な何かといったらいいのだろうか。彼はそういった心理的なサポートがうまい奴なんだと思う。流石、将来の臨床心理士候補。
数十分後。
A「おー!待たせたな。無事人数揃ったわ。」
B「何人?」
A「15人かな。」
B「当日募集にしては凄いね。」
A「ははは。これも俺の人徳なのかな(笑)。」
B「調子に乗るやな。おっさんが(笑)。」
Aは学内で一番年をとっている。詳しくは知らないけれど、大検取得して大学へ入学したらしい。そのせいか、飲みの場で高校時代の話になったりすると、とても羨ましそうな顔をする。「俺もそういう青春味わいたかった」と。…何があったかは知らないけど。
時間は進んで、飲みの席へ。
A「えー…この度はみなさんお忙しい中お集まり頂いて真にありがとうございます。えー…今日はC君の誕生日並びに、連続失恋回数を更新したとのことで、えー…大変喜ばしいことでございます(笑)。」
爆笑する聴衆達。ちょっと苦虫をつぶした顔をしているC。
A「…えーそれではCから一言。」
C「えーと今の心境としてはうれしいような悲しいような気分といったところでしょうか。もう、どうでもよくなってきたので、今日は飲まさせて頂きます!!それでは、みなさん、Y美さんにかんぱーい!!」
一同、爆笑しながら乾杯。Y美はCが好きだった女性のことだ。とても仲が良かったので、誰もが付き合うだろうなと思っていたんだけども、結果はうまくいかない方へ。恋愛って難しいんだなと改めて感じさせてくれる事象でもある。
Cの誕生日&失恋飲みは大いに盛り上がった。Y美コールなるものまで作られたし。そんなこんなで1次、2次会と飲み会は進行し、最後は数名だけが残った。時間でいうと何時だろうか。多分、朝と表現した方が的確なんだろう。最近こういう飲みが多い。前からもあったことではあるけれど、頻度で比較したら、圧倒的に最近の方が多い。何故だろうか。
始発の電車に乗って帰る僕ら。
Aがつぶやく。「なにやってるんだろうな…俺達。もう卒業間近なのに。」
C「ははは、俺、就職決まってないわ(笑)。」
D「俺は決まってるけど、ブラックだしな…。」
F「親がなぁ…。決まってないって話すのがさ…。」
A「人生って何なんだろうな。。」