はてなキーワード: ユダヤ教とは
庶民じゃないところにはあった概念なわけでしょ?
ということはそういう概念の誕生の芽みたいなものがあったとも考えられるわけだ。
そして重要なのはキリスト教イスラム教の元になったユダヤ教には処女という概念がなかったということ。
さらにクリスマスが実はヨーロッパ土着宗教の祭りがキリスト教布教以後にキリスト教のフリをして残ったってのは
有名だけど、そういう風にキリスト教やイスラム教ってのは土着宗教の色が実はすごく強くて、
ユダヤ教由来のものよりもそっちの方が大きいくらいで。
つまりキリスト教とイスラム教をユダヤ教を通じて関連づけるのは適切じゃないんじゃないかと。
ユダヤ教のほうが世界を支配していると思う、ってユダヤ陰謀論ってやつですか。悪いけどそんなオカルトを真に受けてるのも相当気持ち悪いよ。
それとそんなに排他的なのはやっぱり一部じゃないかなぁ。他の宗教でも排他的な方々は一部存在すると思うけど、宗教一般でなくキリスト教が特別そうだと思うのかな。まあ元増田さんがお会いになったのがキリスト教徒なんで他は知ったこっちゃないのかもしれませんが…。
あと「自由経済」が「キリスト教文化圏にある西洋を中心に発展し」はダウトじゃないかい?「西洋を中心に発展し」はそうかもしれないけど金融のルーツはまさにユダヤにあると言われてますし(それこそユダヤ陰謀論のルーツの一つ?)。ま陰謀論を否定しておきながら自分も勉強不足なんでその辺うかつな事は言えないんだけどさ。
最近キリスト教徒と会話することが多いんだけど、その経験を通してキリスト教徒ってのはわたしの中でちょっと気持ち悪い存在になった。
わたしが会ったキリスト教徒が熱心な信者ってこともあるかもしれないんだが、とにかくキリスト教が世界を支配しているという認識が強すぎる。
実際にはユダヤ教のほうが支配していると思うんだけど、まあとにかくそんなのお構いなし。
彼等は今わたし達が生きている世界を取り巻く環境―民主主義や自由経済など―がキリスト教世界から誕生したことを重視していて、それをちょっと学問的な話をする度に強調していた。
確かに、そのような概念がキリスト教文化圏にある西洋を中心に発展し、西洋的イデオロギーがその後世界に拡散していったのは事実だろう。
わたしが気になったのは、それをキリスト教が優れた宗教・文化である根拠として、他の宗教や文化を見下していたこと。
非常に排他的なのだ。
もちろん、そんな考えを抱いているのはわたしが会ったごく一部のキリスト教徒に過ぎないのかもしれない。
だけど、彼等の印象が強すぎてちょっとキリスト教に偏見を持ってる状態です。
多神教だからといって異教と対立しないわけじゃないからね。
たとえばローマ帝国は多神教だったわけだけど、キリスト教徒やユダヤ教徒と衝突してるし、人死にも出している。
ローマ帝国は、異教徒に、当時の水準で言えば十分に寛容だったろうが、ローマ帝国が弾圧を加えたこと自体は事実だ。
また、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」ってのは、信仰とは切り離しての政治的な妥協を認める格言だ。キリスト教だって頭が固いばかりではないよ。
あと、日本の仏教でも天台宗から批判されて(原因はそれだけじゃないにしても)幕府から浄土宗が弾圧されたりしてるし。日蓮宗は他宗派を激しく批判してるし。
あの質問主は頭がおかしいわけでも何でも無い。宗教なんだよ。地下活動しているので知らなくても当然だが。
唯一神「ありがとう」をあがめるありがとう教の信者は、基本的には紹介制になっていて、近所の教会に飛び込みで入信するってわけにはいかない。というか、教会は持っていない。「この人は正しく倫理的で正義感にあふれ、礼の心を持ち合わせた強き人です」と既存信者に紹介してもらって、初めて入信の扉を叩くことができる。宗教と言うよりフリーメーソン型の結社と言っていい。
「ありがとう」は神の御名であり、軽々しく口にする事は冒涜に当たる。同様なケースはユダヤ教にも見られ、教徒は恐れ多い神の名(ヤーウェとも、ヤハベ、エホバとも)を日常口にするのを忌避し、その頭文字であるユッド(あるいはヨッド)で神の事を話す。この手の言霊信仰に近い考え方は世界各地に見られる。
ありがとう教において、唯一にして絶対の神の名は、正しい時と場所で、清らかなる心の元に発するものであり、軽々しく口にする事は万死に値する。一方で、基本的に地下組織的であるこの教団は、表立って「ありがとうを正しい心で」と布教できないため、信者は自分が選ばれたものであると言う自負と、愚民への怒りの間でさいなまされる事になる。
「ありがとう」という秘儀がこのように公の場で語られることは珍しい。だが、それに正しく応じているものがいることは、これが単なる怒りの発露ではなく秘密の通信の一部であることをにおわせる。たぶん「チチキトク・スグカエレ」で麻薬取引の合図とするような、何らかの取り決めがあったのだろう。
それにしてもうかつだっのではないか。意図せぬこととは言え、これほど一般から注目を浴びてしまっては、教団内部での地位が危ないのではないか。モーツアルトはフリーメーソンの秘儀をオペラ「魔笛」の中で漏らしたために殺されたとも言われている。この二人にどのような運命が待ち構えているのか、深く考えるのは避けておく。
ちなみに、ありがとう教のほかにも、おはよう教、しんせつ教、すみません教といった、秘密教団があってそれぞれ活動している。ぐぐっても引っかからないが、公安がマークしているし、時々民俗学系雑誌で話題になっている事がある。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はどれも戦争と殺戮を生み出すキチガイ集団にしか見えない。
神道と仏教については特にどうとも思わないが、戦前の神道とか今の創価は狂ってると思うので、単に目立つかどうかの問題なのかもしれない。
「日本人はまともな宗教教育を受けていないからオウムみたいなのに騙されるのだ」と偉そうに語りながら、選挙の時に同性愛と妊娠中絶の是非ばかり気にするアメリカ人には心底「お前が言うな」と思う。
そういえばイギリス人もそんなことを言っていた気がする。お前が言うな。
特にカルト宗教を含む新宗教(というかほとんどすべての新宗教はカルト的に見える。少なくともwikipediaで新宗教カテゴリに含まれるものは全部気が狂っているように見える)は馬鹿らしい。
知っている限りの宗教はすべて功罪両方あるが罪の方が多く、全人類が宗教など捨ててしまえば少しはマシな世界になるのではないかと常々思う。でも白人は宗教がないと無差別に隣人を殺し始めるのかもしれない。
オウムの時に「最近の若者は勉強ができても頭が悪いのでオウムなんかに引っかかるのだ」とさんざん言われたが、昔の若者のほうがよほど頭が悪かったのでキリスト教やイスラム教が普及したのだろう。
それでも、もし選挙に「すべての宗教を禁止します! あれは阿片だから!」と言って出馬する議員がいたら顔をしかめて罵倒するだろう。「今どきアカかよ」「阿片って麻薬って意味じゃないんだぜ! Wikipediaに書いてあったから知ってる!」くらいのことは言う。思想の自由は大切だ。弾圧とかするべきではない。
http://anond.hatelabo.jp/20070808133311
「心の中の“善い自分”と“悪い自分”が戦っている」というのも、ここでいう「動機」のうちに入るかな? 一元論じゃなくて二元論だけど。
・善い自分が勝てば、勤勉とか誠実とか謙遜とか慈愛とか自制といった結果につながる。
・悪い自分が勝てば、怠惰とか不誠実とか傲慢とか憎しみとか貪欲といった結果につながる。
・人間の行動は、この“善い自分”と“悪い自分”が戦った結果として表れるもの。
といった感じのもの。
この説の信奉者は、哲学者や心理学者よりも宗教家に多いかも。特にキリスト教。元ユダヤ教ファリサイ派だったパウロの言葉とか。
人間が善悪二面を持つのは、「人間は神の像に造られたので本質的に善だが、後にアダムとイヴが禁断の木の実を食べた時に悪の心が入った」とか、そんな感じだったっけ。
#これもやや単純化しているきらいはあるけど……
あと、「性欲だよ」と「死への恐怖だよ」はコインの裏表、という説もあるかも。生への欲求と、死の嫌悪。
はじめに言っておくと、宗教を擁護する立場じゃないよ。個人的にはあらゆる宗教に対して全く逆の立場だよ。神やら仏やらがいるって立場からの説教まじうざい。たいてい、信じてない言うとキレるし。
本題。極端な話、頭ではたとえ嘘(というか、「私が神である」って言うのと同じくらいにありえないナンセンス)とわかっていても宗教をやっていることに価値はあると思うよ。宗教そのものから何の利益が得られなくても、むしろ損害を与えられるとしても、それでも価値はあるかもしれないと思う。
例えば、やめようとする信者に対して、うんざりするような超長時間にわたって説得をしたあげくいざやめたら嫌がらせするとか、そういうカルトがあったとする。すると、このカルトから抜けることによって人災を蒙るわけだ。なら、やる気のない一信者でいた方が得かもしれない。
例えば、ある宗教の信者の中には、やめた信者に対して、宗教に対する敵対と思いこんで凶行に及ぶ狂信者がいるかもしれない。極めて無神論に近い思想で知られる哲学者スピノザは、ユダヤ教を破門された際に襲われていたりするし、現代でも、悪魔の詩の作者ルシュディとその関係者はイスラム教徒によって抹殺されたり、されかけた。
上記ほど凄惨なことにはならなくとも、なお人間関係などにさまざまな影響が及んでしまうのは避けられないだろうし。もちろん、抜ける場合だけではなくて、新たに入る場合にも人間関係に大きな影響があるだろうけれども。人間関係のためにやめられないって人間は多いと思うよ。入信したが最後、人間関係以外の点で面倒なことになってしまうこともあるし。多くの人はあえて面倒なごたごたをしてまで檀家やめようとは思わないでしょう?
もちろん、宗教が無ければこんな面倒は無かったって意見もあるのだろうけれど、既に存在しちゃってるのだからしょうがないじゃない。大型家電の廃棄に金掛かりますというなら、持っててもいいやってなる人がいるのも頷ける話でしょう?
http://anond.hatelabo.jp/20070321150102
人間生きていればつきあいってものがあるからねぇ。私は宗教なんて信じないから、って、社葬に行かなかったり、赤い服着ていったり、手を合わせなかったりしたら、社内コミュニケーションがとれなくなるでしょ。茶碗のごはんにお箸を突き刺してると、同じテーブルについてる仏教の信者がすごく嫌な思いをするんじゃないかね。ユダヤ教信者の前で卍マークをちらつかせないよう配慮することだって、広い意味でいえば宗教行為といえるよね。アラブの国に旅行に行けば、空港降りたときにアッサラームアライクムってよびかけられて、こっちもアッサラームって答えるんじゃないかと思うよ。富士登山するじゃない、そうすると山道のラスト、山頂入口には鳥居があって、それくぐりたくないから鳥居をよけるってそれもどうなのかなー。サッカーでも野球でもグラウンドに礼とかするの、他のみんなが揃ってやってるのにひとりだけ頭下げないってできるのかなぁ…?
なんとも思ってなくても、親のため、子のため、会社のため、あいつのために、頭も下げるし手も合わせる、それが人生だと思うし、その行為で無信心っていう信念が汚されるわけでもないんじゃないかと思うが、どうだろ。