はてなキーワード: ビューティフル・ドリーマーとは
吾郎ちゃんは押井守ファンらしいのでビューティフル・ドリーマーをやりたいんじゃないの。
大学三年で、そろそろ、というかもう進路を考えるにはギリギリの段階の人の愚痴。
就職か進学か、ということで今悩んでいるわけだけど、正直どっちもしたくない。「いや、そんなのみんな同じだよ。それでもずっとモラトリアムなビューティフル・ドリーマーで居るわけにはいかないんだから、みんなどっちかの進路に進むんだよ」と言われそうで、それはまぁ確かにそうなんだけど、それでもそう思ってしまうんだから仕方ない。
就職の何がイヤって、そりゃあやっはり「より利潤を追求するために全てを犠牲にする」っつー、その合理性、というか合目的性なんだろうな。食品や工業製品などの製造業においてはそれは当たり前のことだし、娯楽などの分野に属する業界においても、一見あいつらは「楽しいことを創造します」とかいうけど、その実は、あくまで利益に還元できる「楽しいこと」なわけでさ、例えば凄く面白いことなんだけど、その面白さはごく一部にしか通じない、そんなコンテンツがあったとする。最近は「ロングテール」なんつって、それでも「ごく一部」に求められる数は少なくなってきてるけど、それでも実際採算ラインに乗せようとするなら、やっぱりある程度の数は必要になってしまう。さらに言うなら、そこで「面白い」と思われる内実も、ただ単に「あはは面白れー」というような面白さではダメで、例えば何回も見直したくなったり、あるいはその面白さに金を払いたくなるような、そういうコンテンツ供給側に都合の良い「面白さ」でなきゃならないんだよね。例えばニコ動によくあるMADのような、凄い面白いけど、一回見ればそれで良いし、お金払って見るようなものでもない、そんなものでは仕事にはならないわけだ。趣味には出来るかもしれないけど、それで金は稼げない。金を稼ごうとすれば、結局普通の職業と同じように、打算と、妥協をしなきゃならなくなるわけだ。id:y_arimは、お金を貰って書く原稿より、ブログの記事の方がずっと面白いけど、でもお金を稼げるのは、やっぱり商業原稿で書くような記事なわけ。って、それはあんま関係ない話である。
で、そういうお金の為の打算や妥協がイヤっていうと、「じゃあ学者にでもなれば?」と、既に就職活動に邁進している同級生なんかには呆れ顔で言われるわけだけど、それもなんか違うんだよな〓。確かに学問っていうのは、別に利益を追求しなくてもなんとかなる、数少ない分野ではある。だけどじゃあ学問に目的なんかは無いかっていうと、それは違って、学問には「真実の追究」っていう、これまたつまらねー目的があったりするんだな。
で、「つまらねー」という形容からも分かるように、僕はこの「真実」っていう奴がだいっ嫌いなわけ。ただ「そうなのかもよー」とかいう感じで出した思いつきなのに、何か良くわかんない統計データとかをいじくり回して、一々実証していかなければなんない。ええやん実証なんかせんでも。「そういう可能性があるよ」っていうだけで、その可能性の分だけ世界が豊かになっていくんだからさ、一々そのたくさんある豊かな世界の可能性の中から「これが真実だ!」とか言って、他の可能性を潰すことの何が楽しいかが理解できない。ていうか何でそもそも「真実」なんかを追求したがるのかが分からない。「利益」を追及する理由のはまだ分かるのよ。要するにより一杯物を食いたいとか、沢山寝たいとか、そういう欲の延長線上にあるという理由付けがされている(その理由付けは多分に怪しいけど。だって、明らかに今求められている「利益」ってそれ以上のものじゃん)。でもさ、「真実」を追求したいなんて本能、そもそも人間にあるかぁ?「人間には本能として『より多くの物を知りたい』という好奇心が宿っている」なんていうことを、よく理系の人が言ってて、僕は唖然とするんだけど、生きるっていう目的だけだったら、別に得た知識が本当の意味で「真実」である必要なんかはないわけだよね。ただ生きるために「有用」であればいい。例えば「地面は完全に平ら」っていう知識は、真実としては間違っている(地球は丸いんだから)わけだけど、別に昔の人間からしたら「地面は平ら」と認識していたとしても、生きるにあたって何も不都合はないわけ。それでも、「地球は丸い」っていう真実を知らなければならないっていうのを言おうとすれば、それは本能ではないよね。「真実を追究しなければならない」という、社会的なお約束ごと。別にそういうお約束ごとを守りたいって、誰かさんが思うのは勝手だけど、それが社会的なお約束ごとである以上は、別に僕がそれに従わなければならない理由はないわけでさ。「真実を追究しなければならない」というお約束ごとが、ある社会―この場合は学者共同体だな―では守らなければならないとなっているのは分かるけど、その社会の外から見れば、「なんでそんなお約束ごと守らなきゃならないの」っていう疑問が出てしまう。そしてそれが社会的なお約束ごとである以上、やっぱりそれはそのある社会=大学の外には通用しない以上、その疑問は解消されない。
で、そんなわけだから、学問、及びその学問に奉仕する学者は、「正しいものは正しいから正しいのだ」と主張する集団、つまり宗教とその信者みたいになっていくわけ。いやね、僕の周りにも大学院目指していて、実際に大学院行った奴とかが居るんだけど、ほんと宗教じみてる。ただひたすら図書館で黙々と勉強、何か小難しい英語の本とか数学の本とかを読んで毎日をすごしている。そんな時間あったら、僕だったらゲームしたりニコニコ動画見たりしたいわけだけど、彼はそんなこと一切しない。何故なら「大学院に行っても研究者になれるのはごくわずか。だからとにかく人より多く勉強して、差を付けないと」ということだそうで。そんなことやってて楽しいの?って聞くと、「勉強が楽しいから」と答える。まぁ、ニホンコクケンポーによって個々人には信仰の自由が保障されているからとやかくは言いませんけど、やっぱり僕はそういう信仰を持つのは無理だなぁと。
でも信仰っつったら、別に就職組においてもそれは同じなんだよね。資本主義社会においては、会社は「利益の追求」それ自体を目的にしているわけだけど、そもそも「利益」っつーのは、その得た利益によって、何か楽しいことが出来るから欲しいものなわけで、別に「利益」自体は本来楽しくも何ともない筈なんだよね。ところが資本主義においては「利益の追求」それ自体が目的とされる。となると、実は仕事っつーのも、一見それは本能に根ざしているかのように見えるけど、実は学問と同じように、「利益を追求しなければならない」という社会的な約束事のもとに成り立っていて、そしてそれを信じる信者によって資本主義社会という宗教は運営されているわけだ。まー資本主義が宗教だー、なんて話はそれこそウェーバーなんてドイツのおっさんが言い始めてから常識になっている話な訳だけど。
というわけで、結局モラトリアムを卒業して社会人になるって事は、どれかの信仰を選択してバカになるってことと同じなんだよなぁ。それだったらせめて「友人」とか「恋人」とか「家庭」とかいう、もうちょっと強度の高い信仰を持ちたいものだが、あいにく非コミュの僕にはそんなのはいないわけで……いっそヤンキーみたいに18で出来ちゃった婚とかしてれば、こんな悩みを持たずに、「家庭を守るために俺は仕事を頑張るんだー」とか言って迷わずに道を選べたのかなぁ。それも良いなぁ。でも相手がいないなぁ。
あー、せめてhttp://anond.hatelabo.jp/20090115035320みたいに謙虚な姿勢を身につけておけば何とかなるのだろうけど、上記の文章読んでいれば分かるように、プライドだけは高いもんなぁぼくは。きっとこのまま、就職しても進学しても「僕の進みたい道はこんな道じゃなかった」とか言って、中途半端に辞めて、そうこうしている内にどうしようもなくなって、ニートか引きこもりにでもなって孤独に死んでいくんだろうか。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
ロスジェネの一員として、「戦争を望む」などと思ったことは一度もないし、あれは、論壇向けのアピールに過ぎないと思っていた。あんなのを喜ぶのは左翼的知識人界隈だけで、どうせ著者だけが注目されて終わるだろうと思っていた。
いや、全く。
つーかさ。なんかさ、なんかさあ。おかしいよ、みたいな部分がある。
何も、上だけの話じゃなくて。
例えば、
決断主義トークラジオAlive2 ビューティフル・ドリーマー
http://talkradioalive.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/alive2_ed70.html
を聞け聞けいわれて聞いてみたが、売り出し中の評論家(宇野常寛)をどう戦略を立てて売っていくかみたいな話になってる。お前らが頭が良いのは分かった。でも、お前の人生設計なんてどうでも良いよ、正直。どんどん影響力の低下している論壇という狭い世界の中で、さも重要そうにみみっちい話をしている。
でも、なんつーか、スケールが小さいな、お前ら。みたいな。世の中を良くしようとかじゃなくて、自分の立身出世の方便な訳だね。みたいな。もういいよ。権威は消える運命にあるみたいだな。別に良いけどさ。
エリートは立身出世しか考えていないし、左翼は日本政府を責めることしか考えていないし、ネット右翼は言動は勇ましいけど、頭が悪いから快楽に流されて暴れるだけだし。もう、ワハハハな感じ。
http://anond.hatelabo.jp/20070326170845 にあえて釣られてまじめに書いてみる。
べつに必死なわけじゃないが、オレの場合、「まなび」ファンというより、金月龍之介ファンとして「まなび」を観て楽しんでいる。
金月君が「ジサツのための101の方法」を書いてた頃からのファンだから、もうだいぶ長いことオレは彼の脚本を読んできているが、「まなび」は彼の手がけたシリーズの中では秀作だと思う。
金月君の脚本はディテールにこだわる部分があって、わかりやすさとわかりにくさの両極をいったり来たりしているようなところもあるので、それがイヤな人はとてもイヤだと思う。けれどオレはそれが好きだ。
会話がまどろっこしいとか、ストーリーの進行ペースが遅いという批判もあったりするけど、それがイイと思い始めるとそれがたまらない面白さに感じる。
昔、「毎日が学園祭の前日」を描いたアニメーション映画があった。
言わずと知れた押井守の「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」(1984年/東宝)だ。
「まなび」は「ビューティフル・ドリーマー」のように学園祭の前日にリセットされるというわけではない。だが、「学園祭の前日」までの日常の描写が続くという意味では、かつてアニメ界で話題になった「毎日が学園祭の前日」というテーマに再度取り組んでいるという解釈もできると思う。
学園祭という「ハレ」の日があって、学園祭が来ないという現実。
「ビューティフル・ドリーマー」のラムたちも、「まなび」のまなみたちも、学園祭が来ることを期待しつつも、学園祭を迎えることができないという困難に直面する。
状況の困難さという点では、「ビューティフル・ドリーマー」と「まなび」には共通点がある。
しかし、そういう状況の困難さを乗り越えていく方法は、「ビューティフル・ドリーマー」と「まなび」は対照的だ。
「ビューティフル・ドリーマー」には“無邪気”という状況の困難さを生み出すわかりやすい「敵」がいた。押井の映画では、“無邪気”という見える敵と対峙し、対決することによって、「絶望的な日常の連続」への変化が提示された。「他人の夢なんか壊して自分の現実を生きろ」という押井のメッセージに共感する人が多いのも事実だ。
だが、「まなび」は違う。「絶望的な日常の連続」にわかりやすい「敵」はいない。たしかに校長がたちふさがりはするが、彼女は「敵」ではない。
あえて「敵」を見つけるなら、それは「絶望的な日常の連続」を受け入れて諦めきった生徒ひとりひとりの心だ。そして「絶望的な日常の連続」を受け入れた心は、姿として、形として見えているわけではない。
その心を、まなみたちは愚直なまで正面から、文字通り“ストレート”に立ち向かい、変えようとした。まなみたちは「毎日が学園祭の前日」の日常を決して受け入れたりはしない。
まなみたちは、なにか気の聞いた名セリフを吐くわけではない。たとえば「コードギアス」ルルーシュのように「全力で学園祭を勝ち取れ! 署名を集めてチェックメイトだ!」などとは決して言わない。ハルヒのように「あんたが署名を集めるのよ!」とツンケンな態度をとるわけでもない。そういうのが楽しいというのはわかるし、そういう楽しみ方が間違っているというわけではない。
だが、まなみたちのまぬけなぐらい愚直な姿勢に、彼女たちの行動に、その表現に、オレは心打たれる。
たぶん、金月君以外の脚本家が「まなび」を書いたら、1クールを3、4話ぐらいに圧縮して、残りの話数で面白いエピソードを書くと思う。
逆に言うと、それだけ「まなび」は、他のアニメと比べてスローペースでのんびりストーリーが進んでいる。「ちんたらどうでもいいことで動画枚数使ってるんじゃねーよ」などと不満に思う人もいると思う。
たとえば「コードギアス」みたいに次から次へと物語が展開して緊張感が持続するようなアニメが好きな人が「まなび」を観たら、早い時期に結末が見えてしまって予定調和を感じたり、退屈だと感じるかもしれない。
それは仕方が無い評価だし、その評価が間違っているというわけではない。
だが、そういうスローペースの、のんびりしたアニメが楽しいと感じ、物語の展開と結末よりも過程のディテールを楽しみたいと思うアニメファンもいる。
http://www.ufotable.com/manabi/
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー -- キネマ旬報DB
http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=17402
金月龍之介(業務報告)