はてなキーワード: トリアージとは
>そこで「必ず」って書いちゃうのは、ドグマ的に見えるんだよなあ。
パレート最適から資源を再配分するんだから「必ず」誰かの効用は減るよ。
で、「かわいそう」派のようにパレート最適自体に不満を持っている人もいるから、
いかように配分しても「必ず」不満はどこかに存在する。
>十分な資源があって、
希少資源をどう配分すべきかという問題意識こそが両者の出発点。
>それは君が否定してる複雑なモデルの上でしか解析できなくねえ?
別に否定してないよ。多時点間の資源配分を考えてもも、大凡トリアージ的な発想が
効率的な資源配分をもたらすよ、という話なだけ。論点はトリアージが経営学の例示
として適当かどうかと言う点だから、余談以外の何者でもない。ただそちらが反論として
挙げた「長期的には違うかも知れないじゃないか、だからトリアージなんて経営学上も
おかしいのだ」という言い分は却下される公算が高いよ、という事になるよね。
>「全百貨店の存続」を目的にするのも単純化という意味では同じだね。
同じだね。ここ20年ばかりの日本経済を見ると、長期的には悲惨極まりない結果になると思うけど。
それは個々の企業の直面する経営の問題と言うより、政治的・社会的な再分配の問題。
>複雑なモデルが必要なんだということを学ぶチャンスなんじゃね? ほんとはね。
それは「経営学本来の問題じゃない事を経営学で引き受ける」という点で複雑とは言えそう。
非効率な上に意味のない話だと思うね。
>それにしてもトリアージを持ち出すのはちょっとねえ。もうちょっと方法あるだろ。
まあ「人命が係わるから不謹慎」という言い草は認めるとしても、それがナチスだ何だという
妄想は概ね却下されたと見ていいね。ただ、ブコメで少なからぬ人が反感とともに納得を
覚えたように、必ずしも不適切な例ではないどころか、相当効果的な劇薬といった感じじゃないかな。
当初の女子学生の「かわいそう」という発想の彼の考えるところの女性性への揶揄を踏まえて読めば、それ以上の含みがあったように読むのが自然だと思うけどね。それはともかく。
仮にそうだとしても、それを表現するための例示の適切さとは別問題だな。
あるだろ。なんでこんな無駄にデリケートな例示を選ぶんだ。この話題がデリケートだということ自体を理解して無いんだとしたらその無理解は批判されても仕方ないな。実際批判されたし先生は謝ったねえ。
専門家じゃない。医者は医学の専門家ではあって、危機管理の専門家ではない。
まして、専門家の意見を信頼すべきなのは事実に関する部分であって、特定の価値判断を含む部分ではない。「トリアージを例に出すのは不謹慎」というのは、いくら当事者の意見ではあっても、あくまで一つの主観でしかない。
現地でトリアージに当たった医師が専門家じゃないってのはとんでもない発想だなあ。
福耳先生という経営学の専門家も謝ってんだけどな。お前はどういう立場で専門家としてこの二人の専門家の判断に異を唱えてるわけ?
だとすればあんたが説明不足なのか俺が「あたまがわるい」かどちらかだが
どっちだかははっきりしてんだろ。俺みたいに理系でも分かる平易な言葉で過不足のない説明をしてもわかってないんだから。
「抗議されるだろう」と言ったからな。「問題がある」と書かずに「抗議される」と書くのはおかしいと思ったまで。
俺は「抗議されるのはもっともだ」といってるだろ。問題が有るからに決まってる。それとも、何の問題もないと思ってんのか?
ユダヤ人絶滅ゲームになんの問題もない、抗議する奴が馬鹿なんだ、と考える視点からこの問題を論じるとすればなるほどあの経営学の先生にはなんの問題も無いかもしれんが、そこまでアホな議論には付き合いきれんぞ。
だからその必然性は?俺はトリアージの例が不適切だと思ってないので、「不適切な例ではなく適切な例を挙げればよかった」と言われても何の説明にもなってない。
同じテトリスのルールでも、挑戦的な表現をしたい、けんかを売りたいんで無い限りは、ユダヤ人絶滅ゲームというデコレーションを避ける必然性はある、と俺は考えるんだが、その前提すら通用しないのであれば、なるほどトリアージという例示を避ける必然性もないのかもな。でもそんなアホな議論には付き合いきれんな。福耳先生はトリアージの当事者にはあっさり謝ってる。そんな挑戦的な表現をしたかったわけではないわなあ。
君はそういう挑戦をしたいのかも知れんけど。
あと、あんたはその種の決めつけが多いから敢えて言うが、人の専門を勝手に数学に限定するな。こんな話は理工系の人間なら誰でも(というと言い過ぎだが)知っている。
いや応用数学の話を自分でしてたろ。つか人を人文系だの左翼だのにカテゴライズしといてよく言うよ。
なぜトリアージを持ち出したかという動機の話をしている。福耳氏の抗議は一般教養としての経営学であって、だとすると「制約条件の下での最適化」のような発想を学んでほしいと考えるのも自然だし、事実、氏の記述からはそれが読み取れた。
そして、「制約条件の下での最適化」を教えるのにトリアージという例示を使う必然性はまったくなく、それがデリケートな話題であるのに敢えて使った意図的な例示というわけでもおそらくはなく、だから現場の医師に怒られたらあっさり謝っている。不適切だったんだよ。話終わってんじゃん……。
いや、福耳氏の文章からすると、「制約条件の下での最適化」という発想を理解してもらいたかったと考えるのが自然だろう。
そもそも、そんなことを言い出せばあらゆる例示には必然性がないし、そこまでしてトリアージを回避する理由はまったくない。
俺は、例示がトリアージである必要がある、と主張しているわけではない。トリアージを例に出して行けない理由を問うている。
専門家じゃない。医者は医学の専門家ではあって、危機管理の専門家ではない。
まして、専門家の意見を信頼すべきなのは事実に関する部分であって、特定の価値判断を含む部分ではない。「トリアージを例に出すのは不謹慎」というのは、いくら当事者の意見ではあっても、あくまで一つの主観でしかない。あんたらは犯罪被害者の意見を重視するのが嫌いなんだろうからそれはわかるだろ。
hokusyu辺りにいうならともかく、俺が今まで書いてきたことのどこが高踏的な人文系用語の羅列なんだww
いや、あんたに言ってない。「あんたら」に言っている。
あんたの説明は、少なくとも俺には理解できない。だとすればあんたが説明不足なのか俺が「あたまがわるい」かどちらかだが、それをはっきりさせるために十分な説明を出してくれ、と言っている。率直に言って、あそこまで確信を込めて主張できる人間がいるからには、ある程度納得のいく根拠があるんだろうと信じたい気持ちもある。しかし、そういう説明が全く出てこず、本音で「わからない」と言ったら邪推されることへの怒りもある。
別に誰かが抗議したことだけをもって判断基準になんかしてないだろ。
「抗議されるだろう」と言ったからな。「問題がある」と書かずに「抗議される」と書くのはおかしいと思ったまで。
経営学の範囲できっちり処理できる具体例を挙げればいいんだと思うが?
だからその必然性は?俺はトリアージの例が不適切だと思ってないので、「不適切な例ではなく適切な例を挙げればよかった」と言われても何の説明にもなってない。
だいたい、一つの分野を教えるために一つの分野から出るなってどんな縦割り主義だよ。微積を教えるのに物理の例を出してはいかんとでも言うつもりか?
あと、抽象化されたモデルをそのまま抽象化されたモデルとして理解するトレーニングは(これは別の?増田も言ってたけど)大学レベルの学問としては重要だよな。数学やってんなら分かるだろうけど。
もちろんそれはそうだ。だがそれはこれとは全然別の話で、具体例の助けを借りてはならないということはあり得ないし、あるとすればそれこそ衒学的。教育という観点では、学問への関心を持続するためにも、応用や関連の広さを教えるべき。
あと、あんたはその種の決めつけが多いから敢えて言うが、人の専門を勝手に数学に限定するな。こんな話は理工系の人間なら誰でも(というと言い過ぎだが)知っている。
言い換えだなんて誰も言ってない。なぜトリアージを持ち出したかという動機の話をしている。福耳氏の抗議は一般教養としての経営学であって、だとすると「制約条件の下での最適化」のような発想を学んでほしいと考えるのも自然だし、事実、氏の記述からはそれが読み取れた。
ベストを尽くそうとするものの送りバントの判断ミスのようなものがまじる。
この辺よく知らないけど
例えば行き過ぎた能力主義が社内をギズギズしたものにし
足のひっぱりあい、囚人のジレンマみたいなことが起こり
結果利益を損なっている可能性あり。
つまり、ナチスは先に答えがあり他の二つと根本的に違う気がする。
経営は発展途上。利益追求が不利益になる可能性を含んでる感じ。
持論はいまのところこんな風。
関係はあるだろ。トリアージを含めた「制約条件の下での最適化」という問題は非常に普遍的であって、応用数学のほとんどあらゆる分野に顔を出す。
「制約条件の下での最適化」にまで抽象化・一般化してしまったらトリアージという例示である必要がまったくない。
どうでもいいけど現場の人のうちの一人を錦の御旗として持ち出すのはやめていただきたいね。
今回怒ってたのは現場の医者だろ。専門家。しかも当事者。専門家の専門分野における発言には信を置く、ってことで。
今までのお前らの説明は高踏的な人文系用語の羅列と、過度に込み入った構文によるはしょった説明ばかりでとうてい理解できん。
hokusyu辺りにいうならともかく、俺が今まで書いてきたことのどこが高踏的な人文系用語の羅列なんだwwそもそも俺理系だぞ?
誰かが抗議するなんてこと単独では判断基準にならんと言ってるんだよ。
別に誰かが抗議したことだけをもって判断基準になんかしてないだろ。卍に対する抗議は誤解に基づくものだが、ユダヤ人絶滅ゲームに抗議が来るのはもっともだから、全然話違うわなあ。
いや、俺はそういう教育の方が望ましいと思う。そういうことをすると具体例を削ぎ落とした抽象論だけの教育体系ができあがり、誰も理解できないものになってしまう。
経営学の範囲できっちり処理できる具体例を挙げればいいんだと思うが?
あと、抽象化されたモデルをそのまま抽象化されたモデルとして理解するトレーニングは(これは別の?増田も言ってたけど)大学レベルの学問としては重要だよな。数学やってんなら分かるだろうけど。
なんで経営学で関係もないトリアージの話をせにゃならんのだ。デリケートな話題を他所の分野から持ってくるから現場の人に怒られるようなことになんだよ。
関係はあるだろ。トリアージを含めた「制約条件の下での最適化」という問題は非常に普遍的であって、応用数学のほとんどあらゆる分野に顔を出す。それがいかんことなのか。そもそも、関係ない話をしちゃいけません、ってそれこそ人間性を抑圧するまでの合理主義なんだが。
どうでもいいけど現場の人のうちの一人を錦の御旗として持ち出すのはやめていただきたいね。たぶんあんたは犯罪被害者の意見が最近重視される風潮を苦々しく思ってるんだろう?だったら現場の人を持ち出すのも同じ事だよ。
多分分かってない(か分かってないふりをしている)のはお前とHALTANだけだと思うよ。同一人物で無いなら、だけどな。
それだけは絶対にあり得ないwwwwwww
まあ、いいよ。わかってないのは俺だけだとしよう。じゃあ、わかるように説明してくれ。俺は馬鹿だがお前はその俺を過大評価して「わかってないふりをしている」と思っているようだが、今までのお前らの説明は高踏的な人文系用語の羅列と、過度に込み入った構文によるはしょった説明ばかりでとうてい理解できん。高校生あたりを想定読者において、わかるように説明してくれ。そういう説明を読めたら、「わからないやつは『あたまがわるい』」というお前らの主張に同意することを考えんでもないぞ。長くても構わん。
言っておくが、そういう説明が原理的に不可能だなんていうなよ。それは、お前の主張が普遍的な正しさを持ち合わせていないことを暴露したことになるんだからな。
こりゃまたぶっ飛び解釈。同列だなんて誰も言ってない。誰かが抗議するなんてこと単独では判断基準にならんと言ってるんだよ。
いや、俺はそういう教育の方が望ましいと思う。そういうことをすると具体例を削ぎ落とした抽象論だけの教育体系ができあがり、誰も理解できないものになってしまう。
上にも書いたが、「制約条件の下での最適化」という問題はあまりにも普遍的であって、その考えがいろいろな分野に適用されていることは知っておいた方がよい事実。ついでに言うと、この問題を現実に適用できるとして広く知られるようになったのは、先の大戦の米軍の作戦立案手法からだ。それゆえ、この種の問題を研究する応用数学の分野はoperations researchと現在でも呼ばれる。
だとすると、この分野は「ユダヤ人絶滅ゲーム」と同様のものだから、研究したりその成果を使ったりすべきでないと言えるだろうか。そんなことをすると工学や経済学のほとんどが吹っ飛んでしまうけどね。
なんで経営学で関係もないトリアージの話をせにゃならんのだ。デリケートな話題を他所の分野から持ってくるから現場の人に怒られるようなことになんだよ。
モデルとして複雑になるのを避けたいならそういえばいい(多分そっちのほうが回答としては適切)。
かわいそうだがそれでも潰さなければ総倒れになるような状況がありえて、この問題は実はそれを想定していたのだ、と言いたいならそういえばいい(状況設定の恣意性は問われてもいいと思うがそれはまた別の話として)。
トリアージの話をする必要ないわな? で、デリケートな話題だってことくらいはわかんだろ?
こんな禅問答を仕掛けられたら、そりゃHALTANでなくてもわからんわ。
多分分かってない(か分かってないふりをしている)のはお前とHALTANだけだと思うよ。同一人物で無いなら、だけどな。
抗議は来るだろうさ。ポケモンか何かでゲーム中の「卍」マークがアメリカではユダヤ人団体の抗議で自主規制させられたという話もある。どう考えても抗議する方がおかしいんだがね。由来が全然違う。
へえ、それと「ユダヤ人絶滅ゲーム」への抗議が君の中では同列なんだね。 んー、ダメだ、付き合いきれん、パスw
だから、そんなデリケートでギリギリな状況で仕方なく是認されるようなトリアージの判断を経営学講義の、百貨店経営の喩え話に使うなよってことだが。
だからその理由がわからんと言うとるんだ。歴史教育でホロコーストを教えたらいかんのか。
現実に存在して広く知られているものを例として持ち出したら不適切だなんて、古い少女漫画のどこぞのお高くとまったお嬢様学校の講義じゃあるまいし。
その違いがさっぱりわからん。カレーライスとライスカレーの違いほどもわからん。
こんな禅問答を仕掛けられたら、そりゃHALTANでなくてもわからんわ。
抗議は来るだろうさ。ポケモンか何かでゲーム中の「卍」マークがアメリカではユダヤ人団体の抗議で自主規制させられたという話もある。どう考えても抗議する方がおかしいんだがね。由来が全然違う。
それはそれとして、ゲームの話とトリアージの話をこの後あんたがどう結びつけたいか俺にはよくわからん。あんたが新たに持ち出した論点は発散しすぎてこの件に結びつかないと思う。
どういじればトリアージが正しく理解されないわけ?それに、仮に理解されなかったとしてもあの講義の目的はトリアージを教えることではないのだから別に問題ではない。そもそも、講義が「その場で理解できない」からといって講義の質に問題があるというのはおかしな考え方だろう。
しかしそれだったら、なんで例示としてでもトリアージの話をしたらいかんのだ?わけがわからん。
だから、そんなデリケートでギリギリな状況で仕方なく是認されるようなトリアージの判断を経営学講義の、百貨店経営の喩え話に使うなよってことだが。もう何回書いたか知らんが、不用意な援用だろそりゃ。
そもそも、誰が例の先生の発言やガス室ゲームを規制する話をしてるんだ?
俺は倫理の話をしてるんだが。
あんたとかApemanとかhokusyuとか。「トリアージの話をするな」というのがトリアージ自体を叩いていることでなくて何だというのか。あんたの好きなゲームの話でいうなら、「ゲームの話をするな」というのはゲームに対する攻撃ではないのか?
だから、お前はどうして人の書いてることを徹底的に見ないフリするんだ。
誰もトリアージ自体を否定してないし、トリアージの話をしたことを非難してるわけでもないだろ。先生の講義上の例示が不適切だろって突っ込んでるんだ。その二人のみならず、現場の医者の先生もね。
ユダヤ人絶滅ゲームとかの話は不謹慎だし反倫理的だし抗議の一つもそりゃくるわ、と俺は思うがね。ゲーム好きだけど。
で、あの先生の経営学講義のどこをどういじればトリアージが正しく理解されるわけ?
事前に出来たであろうあらゆる対策による、もっとよい解が全て潰された上での、極限まで制限された条件における選択だな。
それに対して「経営判断」というのは、その問題に対して与えた解のことだ。その解が正しいかどうかということと、問題設定を説明するための例示が正しいかということは、似ても似つかぬほどの別物だ。
そうだな、で、例示が正しくなかったことは認めるのか?
残酷だけど、それをしなくては仕方が無い状況がありえる。残念ながら。
はあ??????
仮にそうだとしたら、俺が持ち出した話は的はずれだと言うことになるかもしれん。
しかしそれだったら、なんで例示としてでもトリアージの話をしたらいかんのだ?わけがわからん。
表現の話はどこへ行った? 飛躍が激しくてついていけんが。
規制するかしないかというのは倫理の話じゃなくて政治の話になる。あんたの話にこそそういう意味で飛躍が多すぎて論点がぶれると思ったから別の例を出したまで。
ト リ ア ー ジ を 叩 い て る 奴 が ど こ に い る ん だ ?
あんたとかApemanとかhokusyuとか。「トリアージの話をするな」というのがトリアージ自体を叩いていることでなくて何だというのか。あんたの好きなゲームの話でいうなら、「ゲームの話をするな」というのはゲームに対する攻撃ではないのか?
まったくだな。論及せずに済むならしたくないものだ。
それはあなたの価値観。俺は「残酷ではあっても重要な事実は積極的に徹底されるべき」と考える。それこそホロコーストなんてのはそうだな。
トリアージが例示したのは「一定の制約条件のなかでの最適化」という問題類型だろう。それに対して「経営判断」というのは、その種の問題の一つに対して与えた解の一つのことだ。その解が正しいかどうかということと、問題設定を説明するための例示が正しいかということは、似ても似つかぬほどの別物だ。
どこでそんなことを俺が書いたのか具体的に示して見ろよ。
残酷だけど、それをしなくては仕方が無い状況がありえる。残念ながら。
そのような状況がもし仮に事前の対策があれば人為的に回避可能であったとしても、そのような状況に彼らを追い込んだ政治や社会の不作為の責任は社会を構成する市民全員にあるのであって、彼ら当事者に集約されるべきものでは絶対にありえない。
そのような状況でそのようなことをした人たちに対しては俺たちは敬意を払うべきだし、そのような人たちが心を病んだりするのであれば、それは状況の被害者だ。
表現の話はどこへ行った? 飛躍が激しくてついていけんが。
トリアージの話とはまったく違うように思えるが?
ト リ ア ー ジ を 叩 い て る 奴 が ど こ に い る ん だ ?
まったくだな。論及せずに済むならしたくないものだ。
それはそうだ。しかしお前らが言ってるのは、主観のために患者を見殺しにすべきということだ。それはいくらなんでも暴論だ。
公権力が絡んでいるかどうかは余り問題ではない。たとえばタミフルとかはしかワクチンの話はどう考える?あれだって、副作用は残酷に決まってるが、実際に病気にかかる方がもっと残酷だ。そして、副作用が出るかでないかなんて事前には判断できない。だったら、タミフルやワクチンを投与した方がよいに決まっている。まして、ことは伝染病だ。非合理的な副作用恐怖でワクチン接種を忌避したら他人を殺しかねない。それでもお前らは「副作用は残酷だ」といってタミフルやはしかワクチンを規制すべきと考えるのか?トリアージを叩く論法からすると、そうでなければ論理的整合性が合わないはずだぞ。
俺の出した例示(元は有名なゲームデザイナーの話だけど)ははっきり人が落ちてくるものだから、そのグレーゾーンとは別問題ね。
で、例えば原作者が自ら触れ回ったらさすがにみんな連想すると思うんだ。中には抗議する人もいるだろうし、それはそれでまっとうだと思うよ。間違ってない。
心を傷つけられるというのは多分に主観だろうが、主観だからって無視していいものではないだろう。倫理的にも、時には法的にも。
あのユダヤ人の気持ちが傷つくのはあいつの主観でしかないんだから知ったことか、ってのは普通に反倫理的だと俺は思うがね。
本当に公権力が絡んでない倫理的自主規制ならなんの問題も無いだろ。
というか、実際はほとんどの作り手が自分の倫理観に照らし合わせて正しい意味で自主規制してる。その辺リミッター外れてる人もいるしいていいけどな。
実際には「表現の自由」が機能不全を起こしているところで公権力による介入を避けるために「倫理的自主規制」という触れ込みで実質公権力のごきげんを伺うような業界内規制をしていることが多いわけで、そっちの問題とは論理的に別だな。
お前がトリアージをしたんじゃないだろ。
お前がPTSDを患ったわけでもないだろ。
そうならないのは、実際の囲碁や将棋がまるで具体的な戦争経験を連想させるものではないからだろうね。だって、人間を「駒」と表現するのが逆に非人間的だと言われてしまうくらい、抽象度が高いわけだから。
じゃあ、テトリスがたとえば本当にガス室から発想されたものだとわかったとしたらどうする?気分はよくないだろうが、テトリス自体を規制しろという議論はおそらく受け入れられまい。
悪く事態が推移すれば世間で受け入れられる可能性はあると思うよ。例えばテトリスの原作者がそういうことを声高に触れ回れば、動く人はいそうに思う。結び付けられちゃうだろうからねえ。
もちろん、規制論を受け入れるべきではないが、それはテトリスが倫理的だから、ではなく、倫理的であるかどうかに関わらずゲーム表現は自由であるべきだから、だよ。
でないと、実際に反倫理的な作品は規制されてもいいことになっちゃうだろ。
ところで、トリアージという発想自体は残酷でないはずだ。一人でも多くの人を救おうというまさに「苦肉の策」であって、それはそれで尊い考え方だろう。見殺しにされる人を一人でも少なく、という考え方が残酷であるはずがない。
行為自体が実際に耐え切れないほど残酷だから携わった人の中にPTSDを患う人まで出るんだろ。何言ってんだ。そんな理屈で切り離せるようならだれも苦しまんわ。甘っちょろい。
いや、そういう作品はガス室の犠牲者達の気持ちを傷つける酷い作品であり、反倫理的だろ。倫理の問題としてはそれでいいと思うのだが?
その論法で行けば囲碁や将棋はもっと広く、戦争被害者の気持ちを傷つけることになるだろう?
まあ囲碁や将棋は抽象性が高く、個別具体的な戦争被害を連想させるようなものではないからか、あんまり倫理的な非難は聞かないけどな。俺も別に囲碁将棋を非難しようとは思わんが。
じゃあ、テトリスがたとえば本当にガス室から発想されたものだとわかったとしたらどうする?気分はよくないだろうが、テトリス自体を規制しろという議論はおそらく受け入れられまい。そういったことと無縁なレベルでテトリスはゲームとして完成しているからだ。要するに、囲碁や将棋が規制されないのと同じ理由だ。
ところで、トリアージという発想自体は残酷でないはずだ。一人でも多くの人を救おうというまさに「苦肉の策」であって、それはそれで尊い考え方だろう。見殺しにされる人を一人でも少なく、という考え方が残酷であるはずがない。
本当に残酷なのは、トリアージを行わざるを得ない現実そのものであって、トリアージという手法それ自体ではない。
あんたらの言ってることは、「残酷な話は聞きたくないから原爆資料館を閉鎖しろ」というのと同じ暴論に過ぎない、というと、また「被爆者に失礼だ、今の発言撤回しろ」とか叩かれるんだろうか。何しろあんたたちの「比喩」に対する感性は理解不能だから、そんなことまで警戒したくなるよ。物言えば唇寒しとはこのことだ。
トリアージの一件でfuku33やHALTANがなぜ叩かれているのか理解できない一人です。
テトリスと同じルールで、人間を効率よくガス室にぎゅうぎゅうづめにしていくゲームを作って売ったら、そりゃ絶対批判を浴びるよな? そこに、ルールは同じじゃないか、ゲームなんて喩え話なんだから怒るなよ、というのは無理筋じゃないかなあ。
どんな言霊信仰だよそれ。確かにそういうゲームが気分が悪いとは俺も思うが、そういう批判に合理性がないことも確かだし、そういう批判を受け付けない相手を悪だと一方的に断罪するのもどうかと思うぜ。
たとえば、囲碁や将棋はどうなんだ?囲碁は侵略切り取りゲーム、将棋は白兵戦ゲームだぞ。しかしあれは高尚な文化として尊敬を集めている。
要は、この手の話は「ものは言い様」であり、簡単に主観に左右される程度のことでしかないのだ。あんたらが「トリアージ」に感じた違和感はその程度のあやふやな根拠しかないことを自覚すべきだよ。
……みたいな話を俺がしだしたら、あなたはそれを話の流れに沿ったことだと思うだろうか。
そんなことは話の本筋とは関係ない、話を逸らすなと思うんじゃないか?
そりゃひらがななんて例に出してないんだからそうなるのは当然では?
fuku33氏は経営学について話しているのであって、トリアージについて話してるわけじゃない。
トリアージ批判は、少なくともfuku33氏の話の流れに沿ってはいない。
とりあーじ批判じゃなくてとりあーじを不用意に例に出すことの批判なわけで話の流れには沿ってると思うんだけども。
あそう発言に「ナチスを持ち出すな」というのは話の流れに沿ってないと思うの?自分の感覚では沿ってると思うけど。
これが話の流れに沿ってると思えるなら、とりあーじを例に出したことを批判するのも話をそらしたことにはならんないはず。
「ナチス呼ばわりは軽率」というのはApeman氏の質問に答えたのであって、
自分から言い出したことじゃなかったはず。
別に答えるべきでないと思うなら、スルーすりゃよかったんじゃね?その解釈だと、ずっとブログかいてなかったのに、突然この話題に反応したあたりがしっくり来ないね。
念のために言っとくが、HALTAN氏が偏向しているかどうかという話はしてないよ。
彼が気にくわないのは話の趣旨と直接関わりない例え話をクローズアップして批判することであって、
ホロコーストにこだわりがあるわけではない、と(俺は思ってる)いう話をしてる。
なちすを不用意に例に出す事を批判するのは「例え話をクローズアップ」することにならなくて、
とりあーじを不用意に例に出す事を批判するのはそうなってしまうと彼が解釈してしまっているとすれば、
ホロコーストがどうというより誰がいったかによって反応変えてるんじゃないかと思う。これって偏向だよね。はてな左翼からすればプンスカになるよねと俺は思ってる。
そこで「必ず」って書いちゃうのは、ドグマ的に見えるんだよなあ。
十分な資源があって、配分に対するそれぞれの要求が特に矛盾して無いなら、誰も割を食わないわけで、そんな状況はなかなかないだろうけど、それこそモデル上の理想状態としては想定できるわけでしょ。概念自体否定しちゃいけないなあ。
長い目で見るとより多くの「かわいそう」を減らせる選択も、実はトリアージ的な、
そちらの言う短期的な視野的な発想かも知れない事は、大いにあり得るわけ。
なるほどありうるのかもしれないが、それは君が否定してる複雑なモデルの上でしか解析できなくねえ?
単純なモデルで計算するんであれば、「利益の最大化」を目的にするのも「全百貨店の存続」を目的にするのも単純化という意味では同じだね。
両方で計算してみて、前者は潰れる百貨店が多くてきっつい、後者は全店共倒れになる、という結論が出て、その両方にこの女子学生が納得できなかったそのときこそ、複雑なモデルが必要なんだということを学ぶチャンスなんじゃね? ほんとはね。
天下りに前者を経営学の託宣として肯定して、その理由にトリアージを持ち出すのは、教育的にもいかがなもんか、とは思う。
まあ授業でそこまで時間とれんかもしれんけど、それにしてもトリアージを持ち出すのはちょっとねえ。もうちょっと方法あるだろ。
前段、女性差別がどうとかで批判してる人なら分かるが、hokusyu氏は女子学生への肩入れ具合はかなり控えめだと思うがなあ。彼の提示してる論理自体はもう女子学生と関係ないだろ。
後段、モデルとしての単純化を言いたいのだとしても、トリアージを引き合いに出す必要全くねえわなw というか、他の現実的論点を呼び込んで余計に複雑化してるじゃねえか、「現に」。不適切だったのはあきらかだよねえ。
「お嬢さん、貴方の言うことは現実にはよく分かる。でも、これはモデルとして単純化した話なので、利益の最大化という単一の目的を設定した上で見ることに同意して欲しい」
とでも言えばいい。モデルとして彼女の観点を容れるのが複雑すぎるのだとしても、現実の問題としての彼女の疑問を封殺する必要は無いはずだ。
つーか、Fランク(という言い方もどうかとは思うが)の学生にこそ、モデルという概念やその意義は教え込んでおくべきだ。学問全体の基礎だからな。
残念ながら女子学生はそんな文脈で「かわいそう」を使ってないよ。
プリミティブだと誰かも言ったようにね。
その場の教育的効果としてはトリアージの例は鮮烈さもあって最適じゃないの?
そちらの挙げるような話をしたければそういう話をするでしょうよ。
他にもこういう話があるぜ? ってのを全否定するためにトリアージ概念を援用してんだろうがよ、経営学者のセンセーさまは。
その粗雑な全否定は経営学的にも狭いし医療用語としてのトリアージの用法としてもダメだし政治的にも問題だろ、ってことだよ。
「かわいそう」の延長でだって経営学は出来るし実際世の中ではやってんだよ。いや「かわいそう」という表現は使ってないとは思うけどなw
センセーだって、そういう解を求められれば、「切り捨てるのが最適解」の一点張りで押し通したりはしないだろうさ。ただあの書き方あのやり方ではまずいだろ。
うああ、すごい。
企業は常に利益の最大化という観点で合理的な選択をして失敗した部署を「トリアージ」するべきであり、そこへ批判を入れるのは全部難癖であり経営学的に誤りである、と。
あのさ、いい悪いをおくとしても(いやおいちゃだめだが)、多くの企業はそこまで非情な理屈で動いてないし、経営学の応用例にも、
http://anond.hatelabo.jp/20080809231804
ここで上げたようなものは考えられるんじゃねえの? 普通。
具体的に本文に当たってと言うけど、誰が見ても具体性がないからね。
お前は全体主義者じゃ!みたいな話の論拠らしき物が「歴史社会学的な云々」しかないから。
中身がないのに偉ぶる奴を衒学的と呼ぶのは、辞書的にはともかくわりと許容範囲だと思うよ。
流れ的にはさ、
こいつなんかネオリベっぽい雰囲気がしてむかつく!
↓
でも資源の最適配分を否定するのは流石にバカだよな。どうしよう。
↓
そうだ、トリアージの歴史を紐解けば何か言えるかも知れない。やってみよう。
↓
資源の有限性(アーリア民族の生存圏)がその合目的的(アーリア民・・・
↓
↓
あとは件の経営学者を呆れさせた女子学生の「かわいそう」をプリミティブな
という感じでさ、具体性も理屈も何もないよね。