はてなキーワード: エンタとは
その子がどんなことを思っているかは知らないけれど、プロってほとんどが今時の言葉で言えば
お笑い芸人って自分+相方でネタを作って稽古して披露するというイメージがあるけど、
「エンタ」は番組スタッフが数人ついて、チームでネタを作ってるんだって。
だから古いタイプを目指している若手芸人にとっては「他人の台本をやるなんて!」と不評だが、
「とにもかくにも売れないとお話にならない」と出場する芸人もいる。
マンガ家だってほとんどが「編集者の作ったストーリーをマンガ化、作品化する」仕事だろ。
この文脈でいって、「何かが違うだろ」の「何か」って何?
エンタな作りだったし、非常に良かった。途中で寝なかったw
ポニョがアドリブの固まりなら、こちらはまるで推理小説の様に理屈で綿密に
構築されている様な作りだ。
イノセンスは、世界に広がりがなく、小さな事件で終わってしまってがっかり、
みたいな部分があったが、今回は違う。舞台装置たる世界設定が良く
できているというか、世界(認識)に対する説明自体が、「推理小説を解くように」
CGと手書きアニメのギャップは相変わらず。いや、さらにギャップが大きくなって
いる。具体的には、CG中心の時は実写的なカメラワークを使っている。チャレンジ
としては面白いかも知れないが、正直まだこなれていない/未完成感はあった。
ヒロインの最後の笑顔は、なるほど、そうやって人は年を取っていくのか、という感じ
だった。パンフまで買ってしまった。(ポニョは買わなかったんだが)
興味のある方は映画館で見るべきだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20080711144312
そのキーボードを見て「エンターキーが右側ないからだめだ」トか言い出すやつが必ずいる
ばっかじゃねーの?
あんな遠くて場所とってるキーのどこがいいんだ。アレを親指で押せるように入力速度がもっと速くなるぞ。
しかもダサいしさ。一体どう言う神経してるのかわからんが、コレをかっこいいと感じる馬鹿もいるらしい。センスおかしいよ。お前80年代のPCが一番かっこよかったとかいってるジジイだろ?
http://www.kinesis-ergo.com/images/kb_classic-wht720x430.jpg
エンタは女受けしないと売れなさそうだし、ていうか、そもそも深夜枠以外でれないかw
まずは結論から言おう。
らきすたは「面白く」もないし「つまらなく」もない。
アニメ版「らきすた」は作品ではなく、現象であるからだ。以下、「らきすた」という呼称はアニメ版のみを指す。
現象には内側に入り込むか、外側から眺めるかの二択しかない。
つまり参加することが面白いのであって、素材である「らきすた」そのものはどうでもいいのだ。
もちろんその素材足りうるいくつかの条件を「らきすた」は備えていた。
その条件は非常に流動的かつ偶発的であるため、マーケティング対象としては不適切である。
人為的な再現はほぼ無理だ。
らきすたの爆発的なブームは、最近巷でよく取り上げられる「祭り」の構造に近い。
作品としては典型的な「劣化あずまんが」以上のものではない。
それぞれのキャラクターの立ち位置もあずまんがのキャラクターとコンパチブルである場合も多い。
もちろん細部は違うから完全に互換だとは言えないまでも、かなり意識的に似通わせた構造の作品であることは明白であろう。
しかし、らきすたにはあずまんがには絶対に存在しなかったキャラクターが居る。
泉こなたである。
泉こなたの存在によって、「らきすた」は「らきすた」足りえていると言うのは万人が否定の余地のないところだ。
では「らきすた」は泉こなたというキャラクターの存在によって何を獲得したのか。
それはメタ視点であった。
泉こなたがオタク男性のアヴァターラ(化身)であるということは、既に多くの指摘を受けている。
「一日2回の二次元をオカズとしたオナニーが日課で、エロゲとネトゲとアニメ以外に生きがいのない汚らしい屑」のことである。
そんな俺たちであったが、それでもやっぱり美少女たちに囲まれる生活には憧れがある。
しかし異性として美少女の前に己を晒すという視点は、すでに俺たちにはリアルなものではない。
どんなに駄目なキャラクターでも、美少女たちに囲まれてチヤホヤされている男性キャラクターに自分自身を重ねることは到底無理であり
「このイケメンが」と嫉妬すら覚えることも稀ではない。
三次元をとうに諦め、二次元美少女にすら傷つけられることを恐れる絶望したオタクたちは、
「せめて二次元ではモテたい」「だがモテるはずがない」という二律背反に引き裂かれかけていた。
そこに生まれたコペルニクス的転換が
美少女は美少女に拒絶されない。これがオタクがその絶望の地平線に見出した新たなる信仰であり
それにすっぽり嵌ったのが泉こなたというキャラクターだったのだ。
「らきすた」という現象の中核はここにある。
本来、らきすたという作品はこなた抜きでも成立しうる。
時おり描かれる他キャラクターの日常をそのままに教室そしてそのほかの場所でのダベリに
こなたが居なかったとしても、かがみんはつかさに突っ込むだろうし、つかさは際限なくボケまくるだろうし、
みゆきは相変わらず豆知識を披露し続けるだろう。
基本的にこなたは彼女らの会話に対し、茶化したり感想を述べるなりするだけの存在である。
視聴者の視点を作品内に持ち込むことで、「らきすた」は「らきすた」として確立した。
故にこなたはどうでもいいことしか言わない。
視聴者の代弁者たるこなたの興味は他の美少女キャラクター自身にあり、彼女らが本来牽引すべきストーリー(そんなものがあったとして)には無い。
だからチョココロネの食い方だとか、そういう
「エンタティメントとして成立していれば明かす必要すらないどうでもいい情報」を知りたがる。
たとえばそれは設定資料集とかにチョロッと書いてある情報を喜ぶような、そういう心理だ。
ではそろそろ作品としての「らきすた」に評価を下そう。
「らきすた」はエンタティメントとしてはつまらない作品である。
笑わせるでもなく、さほどの共感をえられるとも思えない単なる日常を山も谷も無く描くだけの作品だ。
そこにあるのは単なる空間である。
だから、らきすたがつまらないと感じ、ムーブメントに乗れない君らは正しくて幸せだ。
反発を感じる必要など無い。らきすたは面白くない。その通りだ。第一話から最新話まですべてチェックしてニコ同でコメントしまくりDVDも全部予約した俺が保障する。
これまでと同じように充実したリアルとその他のアニメを楽しんで欲しい。
そして、らきすたを面白いと思っているオタクたち、君たちもまた幸せだ。
我々は我々の祭りを存分に楽しもうではないか。つかさにみwikiにかがみんに萌えて彼女らに慰撫される、我々のそれと地続きではない日常を楽しもうではないか。
1942年当時の出来事だった。
1984年に多摩在住デヴィッド・アンダーソンがそれを発見する。
使用した機材はF-552、そのガラクタ屋台社のポール型直立エンタイトル制御装置は世界的に有名になったらしい。
デヴィッド・アンダーソン(以下、薫子)は今日の江戸に夢がないのは、天麩羅の衣に含まれる温暖化ガスが影響していると発表。世界を震撼させる事となる。
1985年、薫子は新しい論文をエクスワイアー紙上にて発表。題名はアンダーソンとブラックホール。
そのセピアな世界観はブラックホールの概念を覆し、温暖化ガスを生み出しているのは豚型貯金箱という衝撃的事実と共に大ベストセラーになり、フィールズメダルを獲得。
しかしその後、薫子は自殺してしまう。
外出中の小学校4年生玉木輝和が捨てられていたゴミの中から発見したのはエロ本だった。
P72に到達したとき一枚のメモが挟まれていることにやっと気づいた馬鹿の玉木輝和は、奇跡的にしこるのを中断した。
そのメモには何も書かれていなかった。しかしそれはメモであることに直感的に玉木輝和は気づく。彼はディテクティブの才能に溢れるピュリッツァー賞だった。
コロッケを買って食べながら、家路に着いた玉木輝和は、おもむろにフランス製蝋燭立てにマッチで火をともすと、メモをあぶり始めた。
そのメモに仕込んであった字が浮かび上がってきた。
メモにはこう書いてあった。
「幼い子は、決してエロほんの中を覗いてはいけない。」
輝和は後悔した。何故俺はエロ本をゴミの中から発見し、エロ本を開いてしまったのだと。
その時、NHKでやっていたサラリーマン・Theoが突然報道番組に変わった。
輝和は最初あまりの動揺に気づかなかったが、自分の名前をテレビが呼んでいることに気づいた。
「玉木輝和、玉木輝和君。君は今日エロ本を学校の帰りで拾ったね。」
なんてこった。玉木輝和は後悔した。何故俺はエロ本をゴミの中から発見し、エロ本を開いてしまったのだと。
テレビは続ける。
「もしこのことをばらされたくなかったら、2丁目にあるゴールデンボーイズという店に来い。」
ゴールデンボーイズ?聞いた事が無い。そんな店この界隈にあるのだろうか。ここはアリゾナ、それにしてもそんな店聞いた事が無い。
NHKを駆使するぐらいの組織相手だ、手抜かりがあったら羽交い絞めにされてファーストキスを奪われるかもしれない。
用心に用心を重ねようと輝和はミネアポリスにいるゲリー・マクワイアと連絡を取った。
「至急車を回せ、ついでにケチャップだ。」
そう指定を終えた輝和は黒のジャケットに着替えた。メーカーはGucchi。まがい物だ。だがそれが自分に一番似合うことを輝和は知っている。
靴はオーダーメイドのベルルルッティ。まがい物だ。これはあまり似合っていないが、本家以上に金を掛けている。
すね毛を少し出しながら、玉木輝和は自分の方も仕事の準備を始める。
まずピンセット、ほぼ日手帳、木彫りのクマ、タモさんストラップ、稲メンが女子警官を引いた時の地面のレンガ。稲垣メンバーの崩壊の瞬間としてこれは歴史的価値が高い。輝和は収集家でもあった。
輝和がそのまま7日の時を過ごすと、ゲリーがやってきた。
「車は壊れちまった。あるのはこれだけだ。」
ゲリーはヘインツを輝和に投げ渡す。
「その前にその子は誰だ?お前の彼女か?」
「あぁ、こいつの名前は薫子」
「よろしくね」
輝和は恥ずかしげに握手をした。その瞬間に思い出した。
この女、いや、この男、デヴィッド・アンダーソン。あのエロ本に載っていた、俺の人生を変えたエロ本に載っていた、ブラックホール発見者でもあり、フィールズメダル獲得者である超天才児齢12歳性別男。死因自殺。
その男が何故ここに。
輝和の不穏な表情が察せられたその瞬間だった。アンダーソンは輝和にキスをした。
輝和にとってファーストキスだった。
体を売るという行為に嫌悪感がある。
突き詰めれば、性行為や性的欲求自体に嫌悪感がある。
恋人同士のそれなら「愛」のお陰で奇麗に見えるけれど、でも売春(や風俗)はそのベールもない。
また、体は大切にすべきものだ、愛のない性行為は誰もがしたがらない、という一般認識がある。
よって、本来したがらないことをしなくては生きていけない可哀想な人、とも見える。
本人が「愛のない性行為全然平気」だと言えば、淫乱としてなおさら軽蔑される。そうでなくとも、性行為に溺れる可哀想な人と見られる。
さらには、性行為は不衛生な印象があるので、風俗関係者は不衛生的業務に携わる人間として忌避される。
例えば、現在では掃除の仕事や汲み取りの仕事は必要不可欠でだとほとんどみんな知っているが、感情面では「辛い仕事をする偉い人」よりは「何か汚らしい」という印象の方が強い。
ギリシャ時代の巫女の様に、風俗関係者もみんな権威を持つようになれば差別はなくなるかもしれない。
とはいえ現代では神の威光に縋る訳にはいかず、財力一辺倒もあまりクリーンなイメージはない。
よって、医者の様に頭が良くなければ風俗のテクニックはマスターできないとなるか、スポーツ選手の様に天性の才能と努力なくしてはプロとしてやっていけない、となる必要があると思うが……難しそうである。
お水やホストに注目されていることもあるし、芸能人のようにエンターテイナーとして一応の権威を持つようになるのが一番ありえるだろうか。
しかし、そもそも性行為がタブーとされているので、どうしたって難しそうな話である。んがんぐ。
エンタは字幕が出るかどうかがひとつのボーダーライン。心を空にして字幕のないネタを見ると案外面白い(ただし、エンタ色に染まってしまっていることは否めない)。
まあそれはそうとして、いったいディープなお笑いファンとは何なんだろう? 笑金やエンタや(現在の)はねとびを見て爆笑するやつはレベルが低い。よろしい。
じゃあラーメンズのファンはレベルが高いのか?(いっておくがラーメンズを馬鹿にしているわけではない。ていうか、昨日もKKP観た)。やりすぎを観てればレベルが高いのか? M-1観てブログにえらそうな感想を書くやつがレベルが高いのか? baseやルミネの5じ6じに行くやつは? いやいや、中野のちっさい箱に行くやつがレベルが高いのか?
別にいいじゃんってことだ。ゴールデンのテレビ観て笑えなければ消せばいい、ようつべで昔の映像を観たり、ド深夜の番組を観たり、ラーメンズのDVDを借りたり、(そこまでの気力があれば)ライブハウスに行って名前も聞いたことのない芸人を見ればいい。別に増田に書くようなことじゃない。ざ・たっちだって出始めはマイナーというか、コアな芸人扱いされてたんだし、クイックジャパンがはねとびの特集を組んだ時代もあったわけだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070211190653
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