はてなキーワード: エセ科学とは
先程、何となくテレビを見ていたら『マジック革命』という番組がやっていた。あの街なかで看板からハンバーガーを取り出して食べちゃうマジックが有名なセロが出ている番組だ。
その番組の中で、ゴルフ場を舞台にセロがマジックをする場面があったのだが、これにモロにCGだと思われる映像の乱れ(画像のブレ、解像度が微妙に違う)が見受けられた。「これに対して視聴者はどう思っているんだろう?」僕が、テレビ番組を観てる最中にそう思ったときは、2ちゃんねるの実況板を覗くようにしている。大方の予想通り「どう見てもCGです。本当に(ry」との意見が目立つ。そんな中にも「CGとか言ってるやつキモい」「セロのマジックはCGと思わせるほどに凄い」との意見もある。
あれが本当にCGかどうかは別として、僕はテレビ番組でCGを使って視聴者を騙す様な作りは別に良いと思っていた。それは観る側にメディアリテラシーがある、と僕が思っていたからである。夕食を食べた後、緩〜い編成の垂れ流しテレビ番組を見ながら、「これはねーよw」「今のはさすがにCGってバレバレだなw」とか言いながら、お腹を休める。これが現在のゴールデン番組の立ち位置だと僕は思っていた。
先程から過去形を頻出させてるのは、現在改めて考え直さざるを得ない状況にあるからだ。それが、今巷を賑わせる『あるある大辞典』の問題だ。僕はほとんどあるある大辞典という番組を観なかったし、例え観たとしても「納豆でやせるだ?有り得ねーだろw」とケチつけながら、ガキの使いが始まるまでの時間つぶしとして観ていただろう。
しかしこの問題で浮き彫りになったのは、あるある大辞典の情報を信用している人が結構居た、ということである。それでまた、ねつ造をしていたことに対して「怒っている」人が居るってな始末である。近頃の炎上ブームに乗っかって、ただ単にお祭り騒ぎがしたくてあるあるを批判している人も大勢いるとは思うが、あれだけスーパーから納豆がなくなる事態が起きたってことは、そういう人も少なからず居るのである。
さてここでセロの話に戻る。僕が今思うことは、あるある大辞典の情報を鵜呑みにしてしまう層の人々が、「マジック革命」を観たらどのような反応をするのだろう。ひいては(セロのマジックがCGで加工されていたと仮定して)セロのマジックがCGだったと週刊誌が報じた場合、どのような反応をするのだろう。この場合ややこしいのは、「マジック番組でCGを使ってはいけない」というルールが存在しないことだ。しかし、CGを使うということは、加工前の映像を撮影しなくてはならないので、出演者(セロのマジックに驚く役者)もマジックに共犯的に加担している。これをやらせと呼べるかどうかは限りなくグレーである。
しかしこの風潮だと「やらせだ!騙された!」という論調が通ってしまいそうな気がしてならない。
あるある問題で、関西テレビが謝罪番組を放送した。ここでの「放送局の信頼を裏切る行為。視聴者、関係者の皆様。誠に申し訳ございませんでした」との発言が引っかかる。僕は、まず前提として「放送局への信頼なんて1ナノも持ってね〜よ!」というスタンスである。だからこそ、CGを使ったマジック番組も鼻で笑って観られるし、エセ科学とねつ造情報の番組も時間つぶし程度に観られるのだ。
しかし頭っから信用してしまう人もいるんだな、ということ知り、更にこれからテレビ番組は面白いものを作ることが難しくなってきたな、と思う。なぜなら面白いもの作りには、作り手と受け取り手にリテラシーが備わっていることが条件だと僕は思うからだ。
でもみんな「科学的な感じ」(実際は科学ではないのだが)の話って好きだよね。「あるある」も「ガッテン」も女性週刊誌も、みんな最近は「これが身体にいい」「これでモテる」だけじゃなくて、「この数値がこんなに上がってるから身体にいい」(実は他のものではもっと上がってたり)「心理学にもとづく男をおとすテクニック」(それ科学的に研究された“学”じゃなくて単なる思いつきの“術”だよ)とか、そこで科学は別にいらないんじゃないの、という状況でも科学を持ち出すことが多い。統計も然り。「血液型性格判断は10万人のデータを取ったれっきとした統計」って昔トリビアでも言ってた(と思うがソースが見つからない)けど、そんなに母集団がでかけりゃそりゃ有意差出るだろ、と(血液型性格判断は疑似科学か?の●2など参照)。
恋愛についても、吊り橋効果とか好意の返報性とかよく使われるけど、好意を恋愛感情と混同してしまうのは女性のほうが多いという研究もあったりする。女性が同意するから、男性に効果があろうとなかろうと女性週刊誌は特集を組むんだろう。本当の「恋愛の科学」はかなり味気ない。
みんな科学(を装ったエセ科学)を拠りどころにしてるんだから、それを壊されるような話は受け入れさせるのは難しいだろうなあ。「でもそれは現在証明されてないだけで」とか。だから、エセ科学教徒を改宗させるには、科学に替わる拠りどころを提供してあげる必要がある。かといって、そうなりかけてる「スピリチュアル」な方向もちょっと考えもので、そうなると社会的繋がりとか、「古きよき」コミュニケーションなんじゃないかな、とか思ったり。「水からの伝言」を道徳に使うのなんて、道徳心を水に養わせておいて、自分たちは楽しようという意図も透けて見える。エセ科学に科学でぶつかっても、また違うエセ科学の鎧を着込んでしまうだろう。エセ科学を撲滅したいなら、本当の科学を知る人たちが「科学は人生を面白くする調味料でしかないんだから、そんなに頼っちゃいけないよ」と伝える努力をしなきゃいけないんじゃないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20070120020700
占星術の精緻な議論(古代バビロニアの占星術あたりから書き起こすような)だったら読んでみたいと思うけどなあ。自分じゃ書けないけど。
血液型占い、水からの伝言等のエセ科学の精緻な議論はここを読んでいるおまえらがやるとして、私は現実的にどうやって彼らエセ科学教徒(以降、彼らと呼ぶ)を改宗させるか、というのを論ずる。
「論座」では足りない。メーカー、電力系の会社が金を出してまでやるべきことではないか?マイナスイオンを冠した製品を作っているところはお断りだが。
彼らに対して、感情という面で訴えかけることは納得できないものもいるかもしれないが、目的のためならば仕方ない。おまえらの中にだって、ハヤカワ文庫のSFもの、スターウォーズ、ブレードランナーなどのSF映画、攻殻機動隊、ガンダム等のアニメに傾倒しているものがいるだろう。それらを本気で科学的でないといって馬鹿にするのか?しないだろう。フィクションとしてのエセ科学(超科学と言ったほうがいいか)と社会的、優生学的な問題を含む血液型性格診断や、安い道徳のために「科学的な事実」として紹介される水からの伝言等、様々な問題を孕むエセ科学の違いなんて彼らに理解できるもんか。彼らには適当な物語を与えといて、とりあえず引き離すほうが得策だ。
例えば「世の中の血液型性格診断(差別と言い換えてもよい)に人生を狂わされながらも、果敢と立ち向かっていく物語」とか「水からの伝言を証明しようと奮闘するマッドサイエンティストと戦う科学者たち」とかそういうのがいいね。痴漢冤罪が映画化される時代なのだから、エセ科学の問題が社会問題になっている昨今、上に挙げたような物語が映画化されてもおかしくないではないか。
エセ科学教徒よ。道徳を説くならば、神話や童話、プロジェクトXでも使えよ。科学のようでそうでないエセ科学物語なんか使うな!
去年、福岡で飲酒運転による事故が起きてからというもの、飲酒運転に対するバッシングは苛烈を極めている。これを使えばよい。
たった一つの事件が世の中の流れを大きく変えることだってあるのだ。暴論だが、小中学生が自殺したとして、遺書には「血液型で性格を一方的に決め付けられ、傷ついた」とか、「水からの伝言を否定したら、仲間外れにされた」とかって書いてあればよい。こうして社会問題化すればエセ科学は一種のタブーとなるに違いない。マスコミが大々的に報じれば完全にこちら側の勝利だ。これも一種の社会的な物語であり、道徳的な科学者連中は承服しかねるだろうが、了承してくれたまえ。だが、現実的にこのような事件が起こってもおかしくないとは思わないかね?
この手は今すぐできるのだが、現実的にはかなり難しい。おまえらがどういう学校、職場にいるのかは知らんが、雑談としてエセ科学チックな話題を振ってくる人間の一人や二人はいるだろう。そのときに反論できれば有効なのだが、おまえらが「血液型で性格が決まるわけねーだろwww。なぜなら……」と言っても、彼らは(夢のないやつだ<フィクションとしての「夢」と区別されなければならないのは前述したとおり>)とか、(空気読めねー奴だ、話題もないし、別にいいじゃん)とか(まじになってんじゃねーよ。頭かてーな、そんなんだから彼氏or彼女できねーんだよ、科学的とかどうでもいいの)とか思うに違いない。これらの思考に対して我々は有効な反論ができない。彼らと物語を共有できない以上、反論することそれ自体がタブーなのだから。結局スルーするか、付き合い上ノッてあげることしかできない。
結局のところ彼らの言論を「シュード・サイエンティフィック・ハラスメント(Pseudo Scientific Harassment)」、エセ科学ハラスメント略して「エセハラ」としてセクハラ並みの扱いにするしかない。だが、認知までに長い時間がかかりそうなので、これには道徳的科学者諸君の啓蒙活動がたいせつになってくるであろう。
しかし、これをやってしまうと彼らから我々が「サイエンティフィック・ハラスメント」と逆批判を受けてしまうことになってしまうので現実的には使えないだろう。やっぱりこの手法は無理か……。
本筋とは関係ないがカナダでは"Scientific Harassment"が問題になっているようだ。民間の医薬品メーカーが公的な研究資金をもらいながら研究結果の一部しか公表しなかったり、科学的な議論を法廷に持ち込んで意見を阻害したりしているのが問題らしい。
世の中にはUFOに宇宙人が乗っているだとか、マイナスイオンとかいろいろエセ科学はあるけれども、血液型性格診断はその中でも性質の悪い猛毒だ、と考えている。
正直言って最近問題になっている「水からの伝言」は、たいしたことではないと考えている。小学生程度の人間にわかりやすくて、道徳的な物語として使えるというメリットがあるし(科学的な事実として受け入れるかどうかは別にしてだよ)、芸能人や有名人が事実として広めたとしても、TVで「幽霊、超常現象は存在するんですねぇ」と発言する位のレベルであり、笑い話として通用する。小学生に教えたとしても「サンタクロースは存在する」ぐらいのレベルで受け取ってもらえるかわいいものなのだ(今は、の話なので芽は摘み取っておくべきだが)。
だが血液型性格診断は違う。人間として生きてゆくには、「性格」というアイデンティティが必要だが、血液型性格診断はそれを生まれながらに決定付けるという非道な行為を恥ずかしげもなく行っていおり、教育的、社会的な弊害が大きい。環境的な要素をまったく無視しており、一部の青少年の心を傷つけることは必定である。居酒屋の笑い話としてならばまだいいが、幼少期の性格形成に影響を与えることは間違いない。最近格差社会がどうとか騒いでいる割には、生まれながらの血液型で人生の性格が決まる性格格差社会を推奨しているといってよい。
その他の弊害は適当に検索してくれ。
最後に、小中学校で教員をしている人たちは、圧力やしがらみによってゲーム脳や水からの伝言などの授業をするかもしれない。だが血液型性格診断だけはやめておくれよ。もちろん反面教師としてならば、どしどしやっておくれ。