2024-08-03

屠ることと物語

https://togetter.com/li/2412556

↑について、ブコメでこう書いた。

一昔前の農村では当たり前で必要なことだった、と勿論理解できるが、今時の都会育ちの分際でこれに何の感情も揺さぶられないならそれはそれでヤバいヤツでしょ。やったこともないのにドヤるのとか。

で、ちょっと違うのだけど、自分は昔知り合いにハンターがいて、鹿をさばくのをちょっと手伝わせてもらったことがある。

またエジプト滞在期があり、親しくなった友人に犠牲祭に呼ばれ、喉を切って屠った羊をさばくのも少し手伝った。一緒にいたポーランド人の友人は目眩がして「とても無理」と言っていたが、わたし全然抵抗がなかった。

自分郊外育ちの甘ちゃんで、好きなテレビダーウィンが来た、愛犬のためなら死ねアニマル大好き人間だ。動物いじめてるやつがいたらぶっ飛ばす。

それでもなんか、屠ることに理合いがあり、特に宗教的裏打ちがあると心理的抵抗がなくなる。というか、そういう物語なしで無意味に殺せる人はヤバい人だ。

何か言いたいかというと、殺す、殺さざるを得ない場面には物語必要で、物語があれば甘ちゃんでも動物くらいは屠れるということ。

そういう要素、広義の宗教的ストーリー無視して殺すべきとか違うとか言っても、なんか的が外れてる気がしてならない。

農村で獣を殺すにも、昔は色々屁理屈をつけていたと思うよ。畜魂碑とかもあるし。

そういう昔から屁理屈大事にしなきゃダメだと思う。

逆に物語さえあれば人は動物も人も平気で殺すから、ぽっと出の怪しい物語を軽々しく信じてはダメ

枯れたやつで細々やるのが良いのよ。。

  • 増田、『ノーカントリー』という映画を知っていますか。 この映画は、ならず者のアントン・シガーが金の鞄を追う男を追いかける、壮絶な追跡劇でございます。シガーが持つ無慈悲な...

  • こういうのは因習村と叩かれず妙に擁護されるんだよな

記事への反応(ブックマークコメント)

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