もちろん孔子が辞は達するのみと言ってるように、表現での工夫には限界があるのも知ってるから与えられてる情報のなかで全力で相手の意図を汲み取ろうと努力はしてるよ。
そのうえで、表現上範囲が不明確かつ文脈からもどうやっても範囲の確定には不十分でしかもそれが実害につながることもありえるだろうからという話をしてるよ。保険ならどこまで保証してくれるのかとかね(まあこれはそれを訊けばいい話だけど)。
どこまでか訊こうと思うような話の流れではないけど、訊かなかったがために勘違いで失望するパターンが怖い(それこそ「基礎から教えよう」と言われて「じゃあどこまで教えるんですか?」と訊こうという発想は普段の俺なら出てこない、今は意識的に考えているから違うとしても)。しかしいつでも訊くと自分に課しておくのは非効率すぎるし常に訊くべきところをキャッチしようと意識することになり精神がつかれることこの上ない。
そもそも俺はもう終点が確実にあると言う主張は棄却してるよ。ただ起点を想定しておいて起点と終点が一致してて実質点というのは文法としてはありえてもそんなのを相手をほんろうさせるために使う「からとはいったがからとまでが一致してないとは言ってない」と言うのは一休さんレベルの屁理屈でしかないがな。そんな屁理屈によっかかるぐらいなら「を」をつかえよってなる。