そもそも合理的方法で意思決定する人間がいるという前提が間違い。
合理的正当化を意思決定に与えるというのが正しい。頭のいい人ほど正当化が上手い。
意思決定そのものは感情によって決定される。合理的正当化はその後、その人の頭の良さに応じた理由づけが与えられる。
合理的方法で意思決定するのではなく、感情で決めつけた決定に正当化の理由があとで付け加えられる。
人間はまず感情で意思決定し、その意思決定に合理的正当化を与えるための思考を行う。
これが合理的思考と呼ばれるものだが、実際には「思考」が「決定」より先にあるのではない。
まったくの逆で、感情に基づく意思決定のあと、合理的正当化のための思考が働くのだ。
つまり、
「合理的方法で意思決定を行う人間が増えれば、宗教は、フェイクニュースは、疑似科学は駆逐される」という説明は、人間の意思決定プロセスを誤解している。
宗教やフェイクニュースや疑似科学に対してどのような感情を持つかは、その人の頭の良さと直接関係しているわけではない。
(相関的な傾向は見られるかもしれない。しかしそれが全てではない。事実、抜群に頭がいい宗教家はたくさんいる。)
もしも宗教が、頭のいい人達に対して好印象を与えることが出来れば、
頭のいい人たちが正当化理由をぞくぞく生み出し、「宗教にたいして反共感的な人々」を論破していくだろう。
「宗教に対して反共感的な人々」もまた、同じプロセスで意思決定を行っている。
何故なら宗教は~~だからだ(感情による意思決定を正当化するための思考)→
「宗教は駆逐されるべきだ、なぜなら宗教は~~だからだ。これが合理的思考だ。」
「合理的思考」とは、「感情で勝手に決めつけた意思決定に、ひねり出した正当化理由をくっつけた主張」に過ぎない。
であるがゆえに、まず相手の感情に訴えかけることが重要なのだ。
「犬はしっぽを使ってコミュニケーションする。しかし犬のしっぽを無理矢理つかんで振り回しても、犬の機嫌が良くなるわけではない。
これは、言葉を使って相手を論破し、従わせようと試みる人たちが常に行う失敗である。
人間は感情に従って言葉と論理を利用するのであり、言葉と論理に従って感情が動くのではない。」
その正当性に意義があった場合、妥当かどうかは誰が判断するの?