「キモオタ」「子供部屋おじさん」「チー牛」といったオタク用語はオタクがオタク同士で言い合っているだけだ。
それも本気でディスるため言っているのではなく、面白いと思って「ネタ」で言っており、ネタをネタと見抜けないやつが難しいのである。
それなのに一部のオタクが誤解して「敵」によってオタクという属性(※オタクは行為であって属性ではない)が攻撃されていると誤解している。
オタクとはすなわち「厄介」であり、関わった時点で負けである。
オタクはオタクと関わることで何か実りがあるかのように吹聴しているが、そこにはなにもない。
オタクと関わりを持たないから、オタクに関してなにか判断を下すだけの判断材料もまた持たない。
それでは一般人はなぜオタクのすることに興味を持たなくなったのか?
そもそも、いままで世間がオタクの言うことを気にしていたかのように見えたのはなぜだろう?
オタクはほぼほぼ全員がコミュ障であり、発言する機会を得られずにいた。
しかしインターネットの普及によって、オタクは自由に発言する機会を得た。
そのとき、人々は「喋らないやつが喋る」という出来事自体に新鮮さを感じていたのだ。
もとよりオタクの喋っている内容それ自体には興味などなかったのだ。
そしてオタクがオタクの言うところ「発言権」を得たことで発言の重み、新鮮味は損なわれた。
喋るだけで承認欲求を満たせたオタクのボーナスステージ=インターネットは、もはやオワコン。
これからは純粋におもしろいやつが人気(※数字による見せかけの人気でなく本当の人気)を総取りする。