2020-09-20

生きることの倦怠、憂鬱

うちの猫今日もものすごく暇そうにしている。窓の外を眺めたり、毛繕いをしたり、ご飯を食べたり、うんちをしたり、猫じゃらしを追いかける他にすることがないから、ほとんど寝て過ごしている。その様は気持ちよさそうにも見えるが退屈しているようにも見える。ただ単調に過ごすこと、これが猫に与えられた使命であり、生そのものなのである。そして猫に限らず少なかれ、いきとし生けるものはこの憂鬱を抱えながら生きている。ただじっと待つこと、生きることの大半はこれに占められている。

退屈はいつも身近にある。たとえば雨ふりの庭、教室の窓から眺める雲、持て余した昼休み頬杖をつき、なにやら取り止めのないことを考えながら、ただじっと時が過ぎるのを待つ。つまらなくって、嫌になっても時計の針は早くは進まない。時計はただ無機的に、砂が流れるのを刻んでいる。まぶたが重くなって、頭がぼんやりとしてくる。退屈が私を呑み込んで、支配してしまう。それでも私はただひたすらに終わるのを待つしかない。

けれども、果たしていつ終わるというのか。そもそもいったい何が終わるというのか。生にまとわりつく、引き延ばされた時間が終わるとするならば、それは死んだということと同義である。ようするに、待っているのは死という決定的な終止符に他ならず、言ってしまえば死を待つことこそが生きるもの宿命なのだろう。そして、やはりこんな取り止めのない日記をつけているのも退屈だからに他ならない。つくづくやれやれと思う。

  • まぁ猫には「退屈」って感情はないと思うけどね。 人間が猫に退屈を見出してるだけで。 そしてそれをやるもまた退屈だからで。 ホント人生ってやりたい事がない人間には長い。

  • ワーギャー騒いでる頭おかしい人たちがいるでしょう 退屈を紛らわせるために虚構にどっぷり使って、金や時間を散財している人もいます それが正しい時間の使い方とは思えません 退...

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