Black Lives Matter (BLM)の流れでblack、white、master、slaveなどの言葉を使うのをやめようという運動がある。
そういうわけで最近それらの言葉を使わない文章を書くようにしたのだが、わざわざそういうのに乗っかって言葉を変えましたよー感がないけどそういう言葉を使わない文章を自然に書いている自分がいて驚く。母国語とする人たちが代替の言葉でやってます感がある言いかえをする中、私の文章にはそもそも元の言葉も代替の言葉も存在しない。
母国語以外でよくやるなと自分で自分に感心してよく考えてみたら、私は子どものころから言葉狩りにあいながら生きてきたようなもんだったなと思いついた。
私が子供のころは今では差別用語としてメディアでまず出てこない言葉にあふれていた。
周囲の大人たちは普通にそういう言葉を使っていたし、それに何の疑問もさしはさまなかった。
学校に行くようになって、どうも言葉には使うとまずいものがあるらしいと知るようになった。
おそらく、当時誰もが当たり前に使っていた言葉がだんだんと使用禁止になっていったような気がする。
使用禁止にすると同時に言い換えの表現が流布されたので、子供のころは言い換え表現を使おうとした。
言い換え表現がなく、単に禁止というのも多々あったように思う。
こうして、通じない言い換え表現や単に禁止みたいなものを何とかするという訓練を子供の時から続けてきた。
最近になってBLMの流れで言い換え表現しましょうよ見たいな感じになっているけれども、母国語での訓練の成果を十分に発揮して、言い換え表現を知らない人でも元の意味が分かるような文章を書けるようになってしまっていた。
アメリカファーストな人たちにはわからないだろうが、個人的にはBLM運動は周回遅れでかつて日本が通った道を通ってると思ってる。