弱者はジェンダーロールから降りづらい…って話に尽きるのではないか?
まっこと残念な話ではあるが、現代でもなお男らしさ女らしさを求められる局面はまだまだ根強い。
もちろんそういうものへのカウンターとして「男らしさ女らしさとか下らない!解放されよう!」
というメッセージは私も素晴らしいとは思うのだが、ここで問題となるのは、
ジェンダーロールを捨てた結果生じる生きづらさだ。
そしてその生きづらさを補填できる存在こそが「強者」であって、「弱者」は補填しづらいのではないか?
(ここで言う「強者」とは年収とか容姿とかコミュ力とかにまあ多岐に渡る要素に関してハイスペであることを想定しちょる)
昨今にはジェンダーフリーを標榜する芸能人や活動家やセレブなど数多に存在しているし、
しかしそれこそ彼ら彼女らがジェンダーロールを降りてもキラキラ輝けるのは
わいら弱者が彼ら彼女らと同様にジェンダーロールを降りてキラキラ輝けるもんなんけ?って話やんけ。
…結局弱者が取りうる道とは、
…の2つしかないのでは。
いや私は世の人みんな男らしさ女らしさとか下らないものから解放されたら良いとは願っていますよ。
私が言いたいのは「ジェンダーロールから解放されよう!」という主張は結構ですが、
まあわかる そもそも降りる降りないの選択をできる時点で十分恵まれているという部分はある
ジェンダーはフリーになっても 弱者と強者の境はフリーになってないから 一般的に弱者とみなされるものであっても 新たな価値観を見つけて強者になることが求められているだけで 弱...