言葉が「死ぬ」というのは、何よりその言葉を使う人がいなくなることだ。たとえばラテン語のように。
ラテン語は、「正しさ」が完全に定義され、変化が許容されず固定化された結果、窮屈過ぎて誰も使わなくなり、そして「死んだ」。もはやラテン語で新たな詩を書く人はいないし、ラテン語を母語とする人も生まれない。それに対して、ラテン語をブロークンにした言語であったところのドイツ語、フランス語、英語……等々は、今日も日々新たに話者を生み出し、獲得して、世界中に広がっている。自由に、楽しく、柔軟な用法を許容され、変化を恐れないこれらの言語は今日も新しい言葉や用法を生み出し続け、つまり「生きて」いる。
このように、言語を生かすとは「変化」を許容することだ。変化を認めないことが、言語を殺す。つまり、「日本語を殺す」ものがあるとしたら、どちらかと言えばそれは変化を許容しないこの人のような考え方だ。
……とはいえ、こういう偏屈な人がいくら声を張り上げたとしても、所詮それは日本語の歴史の中の変化の一つに過ぎず(たとえば「ある時代には懐古的な日本語を流行らそうとした人もいた」程度)、この程度の意見は誤差の範囲内である。そして、大きなレベルで言うなら、少なくとも今ある日本語はまだまだ変化し続けていくだろうし、それは誰が何をしようと止まらない。だからまあ、この程度の意見は適当に聞き流してよいのだ。各論を許容することは、変化を許容することと同じなのだから。
なるほどなぁ もしかしたら何でも許容しちゃうワシは永遠の命を手に入れられるかもしれんなぁ