自分が活躍できる場所とか、自分が幸せになれる場所だとか、自分のやりたいこととか、やりたくはないがそういう生き方で妥協できることだとか、そういうのを見つけるのって結局は自分次第だから。
他人にとっての理想郷が自分にとっては地獄かも知れないし、その逆もある。ワーカーホリックの中にしか幸福を見いだせない人もいれば、ニートを理想とする人間もいる。
そんな中で自分の生き方を考え直す行為に自分探し以外の名前をつけるとどうしても違和感が出る。
自分の活躍できる場所探しという言い方では、それではまるでその場所が全部を何とかしてくれるみたいで、お前がそこを自分の場所にしていく過程はどこに消えているんだよとなってしまう。
自分探しというべきなんだよ。
主体も客体もどこまでも自分で、目的や過程すら自分なら、そう呼ぶべきなんだ。
「どこに行っても自分は自分だ!」「自分探しする奴〜〜ばーかばーか」なんて偉そうに言う人は、今その場所にいる自分と別の場所にいたかもしれない自分が別物であることが想像できてない。
毎日ハンバーガーを食べて育った人と、毎日野菜を食べて育った人間は、遺伝子は同じでも全く違った人間に育ちうる。
筋トレを毎日した人と、しなかった人では筋肉の付き方が全く変わるよね。そういうふうに、最初は同じ自分でも生き方によって別の自分へと分岐していく。
自分はどこに行っても自分なのかも知れないけど、どこに行っても自分が今の自分のままであるなんてことは全くないよ。
それに気づかないまま生きていけた人は、幸せなんだろうね。
羨ましいなあ。
悩みのない人生送ってこれたんだろうなあ。