2017-06-06

なぜアンチ跋扈するか

選択肢が限られていた時代では、不愉快ものであっても折り合いをつけるしかない。

社会全体の総意なんてものは、無数の個人の諦めが澱のように重なってできたものだろう。

今ではそんなもの、あるのか、ないのか、わからなくなってしまった。


選択肢増殖炉(a.k.a. ネット)の恩恵に浴して、

好きなものだけを選べるようになった現在個人は折り合いを強いられなくなった。

一見、すばらい。


しかし、都合のいい世界の住人になる代償として、

不愉快ものに対する耐性の低さ、という租税を支払うことになった。

その住人は、好きなものばかり求める故、不愉快ものを許せない。

好きなものばかり求める事が許されているのは、その選択肢多様性があるからだというのに。


たとえば、ラノベ板。

金と時間をかけて読んでいたラノベが、気に食わぬ方へ展開すると、もう耐えられない。

沸騰した憎しみを抑えられず、好きなものを見つけたときと同じ熱量で、叩き潰しにくる。


選択肢増殖炉が不寛容増殖炉でもある、という欠陥構造が、アンチを生み出す因縁だ。

これから逃れるには、相手へのリスペクトしかない。

リスペクトというのは、「到底、お前のことは理解できんが、対等の存在として認める」という立場のことだ。


批判には必ず、リスペクトが伴わなければならない。

存在が許せない、という感情が一片でもあるなら、それは批判ではなくアンチだ。

その徒労をやめ、諦めることを覚え、好きなもの人生リソース投資した方がずっといい。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん