2016-10-28

重大な問題であるからこそ気軽に認定してはいけない。

知人が自分ストーカーされたんだと騒いでいて、詳しく話を聞いて、実際に起きた重大案件とかと真面目に比較してみたらただの気のせい、というか被害妄想的なものだったって事がある。こんどはアレルギーがあるから云々、と騒いでいる人がいて、詳細を聞けばただ嫌いなだけなのを「アレルギー」と表現していたってだけの話ってこともあった。


ストーカーアレルギーも、本当にそういうのに悩まされている人間にとっては極めて重大なことだ。適当なことでこういう言葉を持ち出すというのはどうかと思う。

無論、気のせいだったとしても強い言葉で表す気持ちもわかる。しかし、多くの人が適当些細な事まで認定していると、やがて言葉意味些細な事を意味するようになって、こんどは本当の重大案件当事者が「些細なことだろ」って世間に思われるようになってしまうんではないかと思う。

勿論、実際に悩まされたことのない人間が重大性を認知し難いというのも現実としてあるのはわかっているが・・

きちんとした根拠もなく、脊髄反射的にそういう言葉を持ち出すのは、上の理由で良くない。「差別は重大な問題であるからこそ、適当理由差別認定してはいけない」と言ってる人もいた。重大な問題から適当理由で騒ぎ立てても重大さ故に免責されるという考えではなく、重大であるからこそ、認定するのには細心の注意を払って、本当に問題ある案件けがきちんと問題視されるようにしていくべきだと思う。

ちょっとしたことで「自分ストーカーを受けたに違いない」と、周りの多くが妄想判断するようなレベルで語る人、「嫌い」という意味で「アレルギー」という言葉を使う人、自分不利益な扱いを受けたのをすべて「差別」とする人、他にも似た例はもちろんあると思うが、「重大な問題を示す言葉」の重大性を下げてしまっているように感じた。

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