2015-07-21

目も耳も自ら失くした男。

書くことと、声を発することが好きな青年がいた。

だが、彼を好きな人間は誰もいなかった。

賢者は彼に書き方と声の発し方を説き、愚者は彼の文字と声を批判した。

青年は書くことも声を発することも好きだったが、賢者の教えも愚者批判苦痛だった。

彼は耐えられなくなり、とうとう自ら耳をそぎ落とした。

それでも不十分だと感じ、今度は目をくり貫いた。

そうして失くしていくうち、彼には書くためだけの腕と、声を発するための口だけが残った。

賢者は呆れ、愚者は響かぬ鉄に興味を失った。

こうして彼に平和が訪れ、いつもの調子で書き、声を発した。

とても不自由だったけれど、この世界を離れる選択だけはしなかった。

きっと自分の声は、書いたものは、きっと誰かに届くという、根拠はないけれど確信はあった。

だがそれはまやかしだと彼は気づかない。

それが幻覚だと気づくには、彼には目がなかった。

それが幻聴だと気づくには、彼には耳がなかった。

それを気づかせてくれる人すら、彼は自ら拒絶した。

青年はもはや青年ではなかったが、奇跡が起きた。

彼の書いたものが、彼の声が届いた人がいたのだ。

彼は嬉しくて、その人と一晩語らった。

それからしばらく経ち、少し冷静になると、彼は重大なことに気がつく。

僕には目も耳もないのに、なぜ会話が成立するのだ。

そもそも、なぜ僕の書いたものが、声が届いたと認識できたのだ。

彼と会話していたのは、彼自身だった。

他人は僕で変わらない、僕は他人で変わらない、僕と同じ人間はいない」

彼はそれに絶望することすら拒絶し、その事実を消去するために心も閉ざした。

だが、それでも彼はこの世界から離れなかった。

こうして、彼は書くことと声を発するだけの物体になった。

その物体の元の姿を知る、賢者愚者も今はもういない。

ただ、彼へ向けた届かぬ問いかけだけが残った。

善悪関係なく、聞きたくないものは全て聞かない、見たくないものを全て見ないようにすれば、その世界にはお前しかいない」

「お前しかいない世界で、お前が書いたものはお前しか読まない。お前が発した声はお前にしか聞こえない」

「それは、もはや書いていないのと同じだ。声を発していないのと同じだ。それでもこの世界にしがみつく理由が、お前にはあるというのか」

「もう諦めましょうや、賢者さん。手遅れです」

「世の理から外れて、もはや人間ですらない。これなら、人間である俺のほうがマシなくらいですよ」

「拒絶してもいい言葉と、耳を傾けるべき言葉区別もつかねえから、こいつはこんなことになったんです」

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