同性愛は罪であり、病的であり、障害である、と考えている人は今現在少数である。しかし同性愛は長い屈辱の歴史を歩んできた。いわれなき迫害。苦悩。絶望。彼ら同性愛者は今まで社会の鉄鎖に縛られてきたのである。だがそれも過去の話となった。彼らは鉄鎖を打ち砕き自らを解放した。それは至極当然のことである。彼らは異性愛者と何ら変わりのない一人の人間なのだ。彼らには何も罪はないのだ。彼らが社会で堂々と生きていける、
僕はこの事を一人の人間として祝福したい。
では、少年愛者はどうか?彼らもまた絶望の歴史を歩んできたのである。そしてそれは今現在も同様にである。しかし、僕はこのことに対して異議を申し立てる気は毛頭ない。なぜならそれが真実だからである。一人の少年愛者として断言する。少年愛とは罪なのだ。
同性愛と少年愛の違いとは何か。この現状の差は何なのか。それは被害者の存在である。同性愛の場合、ゲイ同士で恋をし、愛し合うというのは真っ当なことである。そこに被害者という存在はない。だが少年愛は違う。少年は幼きゆえに正常な判断をすることができない。それにつけ込み利用する極悪非道の犯罪者が少年愛者である、というのが社会一般の考えである。この実情を知った時、僕は絶望に満ち溢れた。社会は僕を生まれながらにして拒絶していたのだ。
僕だって一人の人間だ。恋もすれば愛し合いたいという欲求もある。普通の人のように生きたい。恋い焦がれるものと共に人生を歩みたい。だがそれは叶わぬ夢である。もし愛というものが相手を幸せにしたいというものだとしたら僕は少年を愛してはならないのだ。愛するが故に愛してはならないのだ。少年から見ても社会から見ても僕は罪人なのだ。