コミュ強な人達は、会話を楽しみ、コミュニケーションを通して生きる活力を得ることができる(らしい)。コミュ障な人達は、会話によってエネルギーを消費し精神をすり減らし、一人のときに活力の回復を図ることで生きながらえる。
このためコミュ強同士の会話は全員が幸せであるが、コミュ強とコミュ障の会話はコミュ強がコミュ障のエネルギーを一方的に搾取することになる。もちろんコミュ強に悪意は無く、ただ会話がエネルギーを消耗するものだという発想が無いだけである。「ならばそうだと伝えればいい」? それができる人間はコミュ障ではない。かくして一方的な搾取は、無自覚に続けられていく。
状況を打開するために、コミュ障な人達の一部は、死に物狂いでテクノロジーを発展させる。自らの弱点を補う道具を作り出すのである。そうしなければ生き残れない人達がいる。結果的にコミュ強という特権は失われていくだろう。
これは決して、コミュ障がコミュ強を怨んで戦いを挑んでいるわけではない。ただ、現状の地獄のような人生を、奴隷のような生活を、少しでも改善しようとしているだけである。その結果としてコミュ強とコミュ障の格差が少し是正されるだけである。機械の進歩によって、体の強靭さが必ずしも必要ではなくなったように。コミュ強な人達のコミュニケーション能力の価値は、それが先天的なものであれ、努力の末に獲得したものであれ、いつまでも失われることはない。
もう少し前向きな言い方をすれば、今後テクノロジーの進歩によって、これまで人類の足枷となってきたコミュ障な人達が、少しずつ社会に貢献できるようになっていくだろう、ということである。