この前友人と話していたら、僕の意見は正しくないと言われた。
まぁ、正しくないのは自分でもわかっているんだけど、人に迷惑かけない範囲なら善じゃなくてもいいんじゃないかって気がしている。
学んだって程じゃないけど、本や試験勉強で倫理学的な正しさについて常識的な知識は身につけたつもり。高校の頃はそうやって、善く生きることに憧れたこともある。
でもそんな本とか読んでると、正しいことって凄くめんどくさいって感じた。自分の行為に全部理由をつけて、このような理由で正しいとか、この観点からどうこうとかさ…
絶対的な正しさなんて、そんなに存在しないし、正しさに絶対があるなら、みんな実践してる。相対的なものだからこそ、先人達は悩んだり、考えたりして、それを継承してきてる。
ゆえにめんどくさい。いつからか、そんなことに色々とリソースを使いたくないって考えるようになった。別に間違っててもいいじゃないか。絶対的な正しさがないように、絶対的な不正もないから。
隣人を愛せとか、善く生きろとか、自由意思がどうとか、理性的な生き方がどうとか、言わせておけばいいよ。僕は間違っていたとしても、他人を憎むこともあるし、感情的になることもあるし、自分だけ良ければいいって考えたりもする。それが自分の生まれ持った考えなんだから、理性とか思考とかつまらないもので抑え込むよりは、自由に生きたい。
そう考えてたら、間違ってるってわかっていることをしたりするようになった。相手に正義を突きつけられても、何か理由をつけて言い逃れる。絶対的な正しさが無いので相手は大抵論破できない。
そうやって生きてる。でもそれでいい。その方が無理して抑え込んで生きてるより、よっぽど伸び伸びとしている。あくまで正しく生きることは理想であって、現実的じゃないよ。
きっとこれからもそうやって生きていく。正しさはめんどくさい。抑え込むのはスッキリしない。間違っててもいいから、自分のしたいように生きたい。正義を突きつけられたら、言い逃れればいい。そんなこと考えてたら、したいことも出来ないじゃないか。