『文は人なり 書は人なり』とは言うけれども、『チ○コの舐め方は人なり』などという哲学が果たして成立しうるか。
私は電車の中で考えた。
AVを鑑賞していると、男の一物を舐めるシーンを必ず目にする。
慣れた様子で弄ぶのも捨てがたいものだが、舐めるところの醍醐味は、殊にそれが新人女優の手による時に現れる。
緊張で満たされる中、視聴者の期待に応えようと懸命に頑張る姿は、やや滑稽であるとともに、妙な愛おしさを感じさせてやまない。
恥ずかしそうに目をつぶってぺろぺろする子もいれば、開き直って大胆に、バキュームを炸裂させる子までいる。
ほとばしるものを笑顔で受け止める子もいれば、びっくりして今にも泣きそうな顔を汚す子もいる。
そんな場面を頭に描きながら私は考えるのだ。
少なくとも、性に対して内向的か外向的かの差異は、チ○コの舐め方に表出する。
私は確信した。
くだらぬ事を考えていたら、私の両隣に女性が座った。
混雑する車内で席を確保できたことに安心したのか、二人の女性はさっそく眠り入り、やがて私の肩を枕にした。
筋肉質からは程遠く、腕にはやわらかな脂肪がついているので、私の肩を頼る女性は珍しくはないが、両隣の女性が同時に寄ってくる機会はめったにあるまい。
少々体裁が悪いので私も目をつむることにするけれども、心の中では万々歳。
顔が綻ばぬよう注意をしつつさっきの続きを考える。
かりにチ○コの舐め方により性格が明らかになるとすれば、その場面を観ることで内向的な性格か外向的な性格かが分かりそうだけれど、はたして本当に、照れながら舐めれば内向的で、張り切って舐めれば外向的ということになるのだろうか。そんなに単純なことなのか。
私はなおも考え続ける。二人の女の頭がいよいよ私の肩を重くする。
そうだ、自分がチ○コで、両隣の女がそれを求めているとしよう。
仮想のシチュエーションで視点を変えれば、新たな発想が生まれるかもしれない。
そしてチ○コの気分で電車に揺られてしばらくたったその時であった。
片方の女がビクっとして、驚いて目を覚ましたのである。
さっきまで考えていた難しい問題をすっかり忘れた私は、言い知れぬ満足感を胸に秘め、二人の女を残して目的駅のプラットホームへぴょんと降りた。