物事の良し悪しなんてのはその場その場の状況に「馴染むか」どうかなんだろうな。
ネットじゃやたら大事にされてる文章力だって結局のところはそれぞの感性に「馴染む」かどうかで最後は決まる。
そりゃ滅茶苦茶読みにくかったらまとまな人間にはまず馴染みっこない。
だけどある程度言いたいことが伝わるような文章になったらもうそれは感性に「馴染む」かどうかが全てみたいなもんだ。
文章力を例にしたけどそれ以外のものだって結局はそれぞれに「馴染む」かどうかだ。
酒飲みからすれば酒が飲める奴ってのはソイツによく「馴染む」人間だし、逆もまた然りだ。
飲み会をガンガンやる職場にとっては酒飲みはその場自体に「馴染む」人間になる。
逆に「酒なんて飲む奴はろくなもんじゃない」と全員が思ってる職場があったら、
そこに飲兵衛がやってきてもまず「馴染まない」だろう。
そうやって色んな所で「馴染む」かどうかだけで判断されたものが何故か「良い」「悪い」って名前を付けられてる。
不思議というかもはや理不尽さすら感じるが、実際世の中そんなもんだ。
そうして「良い」「悪い」なんて名前をつけちまうと、今度はその価値基準が万人に通用すると思い込んじまいかける。
勿論、絶対的な価値基準なんか存在しやしない。それぞれに「馴染む」かどうかの集まりに過ぎない。
だが実際、物事の「良し悪し」を巡る言い争いってのはいろんなところで発生してる。
「あの映画面白かったね」「いや微妙でしょ(こいつ頭おかしいのか?)」「面白かったよ(頭大丈夫?)」
よくある会話だ。だけど、こういうのって別にどっちかが頭おかしい訳じゃない。ただ感性が違うだけだ。
そのへんの所をしっかりと分かってない人間ってのがちょいと世の中には多すぎるように感じる。
子供の頃ならしょうがない、自分が否定された経験も相手を否定した経験も少ないんだから単なる経験不足から来る物だ。
だけど、大人になったらその辺は意識できるようになって欲しいと思う。
自分の感性に「馴染む」ものを「良い」と感じるのは極めて正常な反応だ。
だけど、感性は絶対的なものじゃない。自分が「悪い」と感じたものがある人にとってはよく「馴染む」んだ。
まっ、そんだけの話だ。
夜中にふと目が醒めてウジウジと「どうして人は分かり合えないのでしょうかねー」と考えてたらいつの間にかこんな文章が出来てた。
馴染む、ということにして現実逃避してりゃ楽だもんな
なげーよじゃまだよばーか