彼女は先程までの調子とは一転して、速いスピードで踊り始めていた。僕は、周りの観客の海に混じって、その暗闇の中の、ライトに照らしだされたステージの上を眺めていた。
急に僕の胸が動悸を起こし始めた。
でも何故なのか、不思議と苦しくは無かった。
彼女は、可能な限り自由であろうとするかのように踊っていた。手首を、肩を、あらゆる関節を、自由に解放してやるように、あらゆる筋肉が、重力の枷を解き外して、宙へと舞い上がるように。
それは勿論不可能なことだった。僕達がそう考えている以上に、重力は強く、そして我々の体は強張っているのだ。
でも、彼女は光の下で、少しずつそういった制約を乗り越えているように見えた。
僕はその過程の一つ一つを眺めていた。
彼女がステップを踏み、一度くるりと身体を回転させるごとに、時間の流れが少しずつ変わっていくようだった。
音楽が高なるのが分かった。
彼女が最後の力を振り絞るように、腰を捻り、爪先で力強く踏み込み、そして、大きく前に向かってステップした。
光の粒子の運向が、少しだけ変わったように見えた。
あらゆる物体の、微細な流れが、彼女の動きに合わせて、一つの場所に向かおうとしているように見えた。彼女は、まるで、その粒子の流れに乗って泳ぐ、一匹の魚のようだった。
でも、結局のところ、それは僕の錯覚だったのだろう。
ふと気付いた時に、舞台は終わっていた。
彼女は、さっきまでの演技をしていた時とは別人のように――いつもの、お嬢様の、はにかみ屋の姿のままに――我々に向かって何度もお辞儀をしていた。小柄な彼女の黒髪が、礼をする度に何度も揺れていた。
割れんばかりの喝采が鳴り響いていて、僕は、ふと思い出したかのように拍手を合わせた。
一瞬、彼女が僕の方を見た気がした。
僕は、気のせいかと思って、暫く目を凝らした。
いや、実際に彼女はこちらを見ていた。僕を探して、暗闇の中を彼女の視線が彷徨っていた。
そして、視線が、ぴたりと合った。
彼女の動きが止まった。
僕が、どんな顔をしていたのかは分からない。
彼女は、僕に向かって、とても誇らしげに微笑みかけていた。
だから、僕も微笑むことができた。彼女に向かって、少しぎこちなくではあるけれど、微笑み返していた。
僕は、ただただ唖然としていたのだ。彼女の、その踊りを見て、まるで、彼女がその場の時間をも支配してしまったかのような、そんな感覚を覚えていたのだ。
でも、勿論それは錯覚だった。